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負けるが勝ち
○頑張るは「我」を張ること
幸年期情報満載マガジンの福井さんの記事から見つけたこの言葉に「ハッ」とした。
私、今までずっと「我」を張り続けてきたんだな、と気づく。
「わたしさえ我慢すればいい」
「わたしが犠牲になればいい」
正直、どう思おうと個人の勝手である。
けれどそれは「認められたい」の裏返しだったんだ、ということを改めて気づかされた。
自己犠牲の上に「幸せ」が成り立つ、という考え方は、
「わたしさえ頑張ればいい」という、まさに「我」を張っている状態でしかなかったんだ。
スタートラインプログラムを始めるにあたり「何のために」という目標を掲げた際、私は「世界平和」を掲げた。
それは忙しい日々の中、自分の心を整わせることもできず、日々積み重ねてきた「我慢」「苦しみ」「自己犠牲」「不安」「心配」という心の占有率から、「穏やか」「心地良さ」「慈しみ」「楽しさ」「希望」に変えていきたい、という思いがあったからだ。
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先日、本屋で「誕生日占い」という本が目に入り、何気なく自分の誕生日をめくってみると「あなたは負けず嫌いです」という言葉が飛び込んできた。
占い本によってこれらの解釈は異なるため、今まで理解していた解釈は「好奇心が旺盛で活動的」であった。
・・・私、実は負けず嫌いだったのか?
いや、ただ単に占いに頼り過ぎているだけでは?
これはいつもの癖である。
だが、今までを振り返ると、自己犠牲の裏側にあった「認められたい」という思いは、
→「長く働いているのだから出世できるはず」
→「他の人よりも能力があることを示したい」
→「負けたくない」
という構図だったのかもしれない。
勝ち負けにこだわる人生を悪いことだとは言わないが、そこから何を学んだか、のほうが大事だと、占い本は締めくくられていた。
「負け犬の遠吠え」
という本がベストセラーになったことがあった。
「勝ち組、負け組」という表現が流行った時期もあった。
全て満たしてさえいれば安泰だ、という価値観に何の疑問もなかった。
その中で一生懸命に我を張ってきた。
「あの人よりも私のほうが仕事ができる」
「私のほうが会社に貢献している」
そんな比較の中で生きてきて、結局「出世」にはご縁がなかっただけだ。
それだけで自分が「負け」だなんて思っているとしたら、それこそ人間としての心の成長が足りなすぎる。
子供達には、よく「負けるが勝ちだよ」と言っていた。
だが、その言葉を一番理解できていなかったのは母親である私だったとは。
であれば、本当の意味で今回気づけてよかった。
大きなものを失った時は、大きなものを得ている時、だと言われるが、確かにその通りかもしれない。
私は今回の学びのおかげで、心の成長につながったと思う。
いや、自分自身の弱さに向き合えたのかもしれない。
これからの人生を平和に生きていくことができる。
やっと、かもしれない。
でも気づけた時から、弱さの克服につながっているはずだ。
ここまでたどり着くのに、50年もかかってしまった。
何故もっと早く気づけなかったんだろう、って思ったが、私の場合、それだけのプロセスを踏まなければ気づけなかったのだろう。
だから…そういう自分をまるごと受け入れて、今までの痛みを癒し、更なる成長につなげていこう。
今日もありがとうございます。
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