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靴紐の話

真新しいスノーブーツの靴紐を
真下からしっかりと編み上げながら、
この数日、母や知人たちに言われたことを反芻している。

「また別のことを始めるの」
「今までと全く関係ないじゃない」

外は雪で真っ白で、
暇さえあれば雪かきをする生活。
昨晩から明け方にかけての大雪で、昨日までの足跡はすっかりかき消えた。
まっさらな未踏とはこのことだ。

「よく言えば、フットワークが軽いってことだよね」

雪かきに夢中になれば、この頭もすっきりするだろう。
足腰から腕力、身体全体を使うこういう労働が時にはありがたく感じられる。
何も考えなくて済む。
多分に負荷がある方が尚のこといい。

現在34才だが、どうやらこの年齢は、
傍から見て突拍子もないことをやるには、
多くの人を不安にさせる年齢らしい。

“突拍子のない”

“これまでの経歴や過去の出来事からはつながりを感じられない、
全く想像もつかないこと”

そういう理解でいいのならば、
確かに私は突拍子もない…のか?


私という人間を知ろうとするとき、
私のことを一つの物語として知ろうとしたい人がいる。
こういうきっかけがあって、そういった進路に進み、その先にああいった結実した未来が見える。
「なるほどですね」と、とてもわかりやすい物語。
その人物のことを容易に知った気になれる。
初対面の人に限らず、近しい家族であってもそういった理解をしたいと望む。
その方が未来の姿が想像できて安心できるのだろう。

ところが、私のように過去と今やろうとしていることとが
ほとんどつながりがないように見えていると、
多くの人にとって、それは理解が難しいらしい。

「どうしてそうなったの?」

ところがどっこい、
当人としては、心の奥深くに一貫しているものがあるから
全くぶれていないのだが。ここは頑なに譲れない。

だが、そうは言ってもそれは外からは全くわからないし、
言葉で説明するのも容易くない。
若い頃は、自分の考えてることを100%相手に伝えなければと
手を代え言葉を代え頑張っていたものだが
それも飽きた。
時間の無駄だし、とにかくやればいいだけだ。
私の中に蓄積された三十数年分の思考の時間など、
容易にわかってもらえてたまるものか。

双六の形をした人生ゲームのように、
目に見える形じゃなくてすみませんね。
わかりやすく、駒を動かすイメージがなくてすみません。


物語の線上には見えないらしいが、
よく考えればそりゃそうだろう。
私は私の未来のために過去を食らって生きている。
栄養にし、糧にし、その抜け殻や不要物はすっきり排泄する。


ああ、ちょうどこれに似ている。
靴にしっかりと紐を通すこの作業。

右サイド、下から4番目の穴を通して
左サイド、下から5番目の穴に向かう途中、
私はいろいろなところへ寄り道をした。

これからの自分が、己の為に実装したいスキルや思考。
それらを掬い上げて次の穴へ。

左サイド、下から4番目の穴を通して
右サイド、下から5番目の穴に向かう途中、
またあちこち寄り道をした。

私を押し上げてくれるたくさんの知識や新たな知己に出会いに。
他者にはばらばらで統一性のないように見えるようだが、
それらを掬いあげて次の穴へ。

右サイド、下から5番目の穴を通して、
左サイド、下から6番目の穴へ向かう途中、
必要であれば遠回りも厭わず寄り道をする。

その繰り返し。

これから誰の足跡もついていない雪深い道を歩くのだ。
靴紐は、一つ一つ丁寧にしっかり編み上げるにこしたことはない。

若輩の力量だけではすぐにゆるむに違いない。
けれど、今の私が遠く強くひいた靴紐は、
私の両足をしっかり下支えしてくれる。


『全ての装備を知恵に置き換えること』

ふと、石川直樹さんの著書のタイトルが思い浮かんだ。
20代の頃、よく読んだ本。

今の私なら、こう言うだろう。
「全ての過去を私の未来の糧に置き換えること」


そう思えば何のことはない。
やかましい風の音は私の進路を妨げない。
十分に蓄えて、歩き出したもん勝ちなのだ。

今日は天気がいい。
渾身の雪かき日和。


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