読書感想文(394)阿満利麿『法然を読む:「選択本願念仏集」講義』

はじめに

こんにちは、笛の人です。
読んでくださってありがとうございます。

今回は京都国立博物館の企画展「法然と極楽浄土」に合わせて、法然に関する本を読みました。

※2024年に読んだ本

感想

本の内容は良かったけど、浄土宗にはやっぱり賛成できないと思いました。

まず法然の行為について。
法然は「諸行を捨てて念仏せよ」と説きました。
『選択本願念仏集』はその理屈を述べています。
しかし、法然やっていることは現代風に言うと「切り抜き」です。
念仏の凄さを強調するために諸行を挙げたという自身の都合に合わせた解釈もそうですが、持論に都合の良いところだけを拾い、都合の悪いところは取り上げません。
しかし、私は法然が悪いとは思っていませんし、むしろ良いことをした善人であると思います。なぜなら、当時の人々はそれ以外に救済される方法が無かったからです。
そういった人達を救うためには、念仏というほぼ誰でもできることをやれば救われる、という論理を信じさせることが必要でした。
従来の仏教で救えなかった人々を救ったのは法然の偉業だと思います。
ただし、個人的には「そもそも往生したいと思えねぇよ」と開き直っている親鸞の方が正直な感じがして好感が持てます。親鸞が「仮に念仏で救われないのなら、そもそも自分は地獄に堕ちる他ない。ゆえに信じる他ない」と言うように、浄土宗による救済はあくまでも最終手段であるように思います。
そして現代に照らし合わせてみると、浄土宗を必要としている人はそれほど多くないように思われます。むしろ、念仏による救済に縋るしかない人達を救うために、余裕のある人が菩薩として懸命に働くべきではないかと思います。
もう一点、現代に照らし合わせて考えるに、科学が発達した現代では念仏による救済を信じることがそもそも難しいのです。ゆえに、本当にそういった人達の救済を望むのであれば、法然のように時代に合わせた別の論理を立ち上げてほしいものだと思います。
現代において、力のあるお寺は観光地化してお金を稼ぎ、何に使っているのでしょうか。一人でも自死を選択してしまう人が減るよう、救済の道を示してほしいものです。
法然は一切衆生救済を求めた結果、念仏という簡単な行に辿り着きました。
しかし、そもそも一つの行で一切衆生を救済しようとする必然性が無いように思います。各々が各々の形で救われるために、各々が菩薩となって各々が可能な限り多くの人を救済する。そのようにして大勢の菩薩がネットのように人々を救済し合って、一切衆生を救済する。そういった在り方が現代には適しているように思われます。
そう考えると、浄土宗はそのネットの一つです。もっと言えば、ネットの一番最後の穴を塞いでくれるのが浄土宗です。
なので、やはり浄土宗は必要な宗教だと思います。
しかし、浄土宗が広く信仰されるというのは、それだけ最終手段に頼らなければならない人が多いということです。よって、浄土宗はむしろ縮小していくことが望ましいのです。世の中の誰一人として浄土宗を必要としなくなった時、浄土宗は役目を全うして滅びることができます。浄土宗の滅亡は一切衆生が念仏以外の方法でも救われるようになった世の中です。浄土宗は自らの宗教の滅亡を目指しつつ、その時まで必要とする人に手を差し伸べることを理念とすべきなのではないでしょうか。そして、そのためにも他の宗派の菩薩たちが各々の救える人達を救うようにします。その際、他の宗派を弾圧しないことが大切です。アショーカ王の時代の仏教を重んじましょう。皆で仲良く、それぞれの道で山頂を目指すのです。「月影や四門四宗もただ一つ」と詠んだ芭蕉は偉いです。

長くなりましたが、その他思いついたことをメモしておきます。

『沙石集』の無住は「和光同塵こそ諸仏の慈悲の極まり」と述べた。禅宗に近いのだろうか。

阿弥陀如来のパラドックス
→阿弥陀如来に自分を救ってもらうためには阿弥陀如来(が全ての衆生を救ってくれる、救えるということ)を信じる必要があるが、それを信じられない人は救ってもらえない、しかしそうすると一切衆生救済はできない。不信の病の人々は如何に救えるだろうか。

清沢満之
→宗教とは有限な自己が無限の存在に自己を託す営み、超越者を想定してその存在が明らかになったときにその神仏に自己を託すのではなく、まず自己の中に神仏を求めてやまない心の存在を自覚することがさきだ。
私共は神仏が存在するが故に信ずるのではない。私共が神仏を信ずるが故に、私共に対して神仏が存在するのではある。

宗教はあくまでも「主観的事実」のなかにあるのであり、自分のなかにある宗教的要求に目覚めてはじめて救済原理が生き生きとせまってくるのである→恋愛も同じか

おわりに

こういった本を読むと自分の目指したいところが少しずつ見えてくるような気がします。
自分が菩薩としてより多くの人を救済するにはどうするべきかを考えながら生きていきたいと思います。

ということで、最後まで読んでくださってありがとうございました。

メモ

自分用のメモ。

24六道輪廻は、不条理な人生に対する根源的不安を克服するための物語

27『沙石集』無住→和光同塵こそ諸仏の慈悲の極まり

32無住は、山頂に至るのが目的で登山道は自由という立場→いいね

芭蕉の「月影や」

43他の修行捨てて念仏が最善、無量寿経以外滅びるから

45源平合戦で東大寺などをやきまくった平重衡は、処刑直前に法然に会いたがった、平家物語→48結局自分のことしか考えてないな

50選択本願念仏集の草稿が廬山寺にある

54煩悩を除去するのではなく、煩悩を認めた上でいかにすれば成仏が可能なのか、この一点からスタート

→各々が精一杯生きることが大切なのでは?

→オリジナル念仏の作成

58栂尾の明恵上人は『摧邪輪』を著して法然に攻撃

68 聖道門、浄土門、道綽どうしゃくの考え『安楽集』6世紀末〜7世紀前半、随末から唐

83浄土は宗教的要求に応じて姿をあらわす世界

88時期相応の法(歴史的状況と人間の素質や可能性が対応した時にはじめて有効となる)

91,92道綽が作った願文

98法然が「浄土宗」を立てる、「宗」は国家の保護と特権を受けること→新たな宗を公認手続き無視して立てるのは反体制的行為

→99天皇の許しが必要とは即ち宗教が国家に服従すること


108浄土宗は善導教ともいわれる

130無量寿経の切り抜き→善導は検討しているし、親鸞は善導の論まで戻って検証している

134阿弥陀如来(法蔵)は色んな浄土を見て、最高の浄土を作った

称名を条件にしたのは「勝劣」と「難易」、勝劣とはその他の行が家の部品であるのに対して称名は家という言葉そのもので全体を表すから?


☆阿弥陀如来のパラドックス

→阿弥陀如来に自分を救ってもらうためには阿弥陀如来(が全ての衆生を救ってくれる、救えるということ)を信じる必要があるが、それを信じられない人は救ってもらえない、しかしそうすると一切衆生救済はできない

不信の病の人々は如何に救えるだろうか


目的が往生→当時の人々の考えを理解する+メタ的にどのような真理や論理があるか考える必要→疲れる

色んな人を救えるように少しずつカバーしていく、自分もその一つになれたら


仏教の勉強をしていると、自分が得た情報の真偽を確かめることの難しさを感じる

末法の末の世の中を描いてみたい

164善導は「三心」の「至誠心」とは「真実心」であり、内外に真実心を貫けと言う。しかし法然は立派な外見に内心を一致させる方法もあれば、ダメな内心に外見を近づける方法もあるとする


175阿弥陀如来が凡夫を救うことを信じられるのは、自分が仏になる手段を一切断たれている凡夫だという認識が前提になるということ

175,176清沢満之、宗教とは有限な自己が無限の存在に自己を託す営み、超越者を想定してその存在が明らかになったときにその神仏に自己を託すのではなく、まず自己の中に神仏を求めてやまない心の存在を自覚することがさきだ


176現在のわれわれの感覚からすれば、信心は、その対象である神仏の存在が明白であることが条件と考えられる。だから、現代では宗教を説く人たちは、多くの場合、神仏の存在をまず証明しようとする。とりわけ、科学的に証明しようと試みる。そして、もし神仏の存在が科学的に証明されるなら、神仏を信じるのもやぶさかではないが、その存在もあやふやな段階では、とても神仏など信じられない、と考える。それが常識というとのであろう。

だが、清沢満之は、このような常識はきっぱりと否定して、つぎのようにいう。

私共は神仏が存在するが故に信ずるのではない。私共が神仏を信ずるが故に、私共に対して神仏が存在するのではある。

177清沢満之、宗教は主観的事実

178法然の『浄土宗略抄』中の「深心」の解釈、「往生は不定に思へば不定也、一定とおもへば一定する事也」

179宗教はあくまでも「主観的事実」のなかにあるのであり、自分のなかにある宗教的要求に目覚めてはじめて救済原理が生き生きとせまってくるのである→恋愛も同じか

179自分がどのような人間であるかを知り、そこにどうして阿智陀仏の本願が働くのかをよくよく知ってはじめて、本願念仏が信じられる。

180自らの努力によって仏になることができるという人には、「浄土宗」は縁はない→逆に自覚することはできた

187旅人のたとえ、「水火の難に堕すことを畏れざれ」→凡夫のまま救う

188浄土宗ではまず仏になり、その後で神通力を使って人々を救済するという利他→まず自分か、マルチの人が好きそう

189往相回向と還相回向、親鸞

195 随他意と随自意

203廃立、自分が何を選ぶか

221法然が善導と会ったのは法然の言葉ではない、なぜなら神秘的体験の重視は法然が求めた「平等の慈悲」から離れるから

221信知、信じなければならない理由を徹底的に知ること

225,226でも念仏は簡単というだけで原理的に遍く救済はあり得ない、やっぱり自分は、各々が菩薩としてできるだけ沢山の人々を救済する方がしっくりくる


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