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特集 ココロとモノ性──モノであふれる世界の記述を超えて(北本遼太)


 本特集の主旨を述べるために、はてな匿名ダイアリーに投稿された「俺が...理解のある彼くんに...?」と題したブログ[注1]とそれに対するコメントを紹介しよう。大元のブログ記事は、ADHDの診断を受けた恋人による気遣いのない言動についての悩みを投稿者である増田が吐露したものである。増田を傷つけたり、増田の思いやりに対して感謝を示さなかったりする彼女に対してそれらを改善してほしいと伝えても、それらの振る舞いは障害特性のせいだから気にしないでと言い返され、増田の望む謝罪や感謝が返ってこない状況が書き綴られている。増田自身も発達障害への知識・理解が不十分なことを自省しながら、「世の「理解のある彼くん/彼女ちゃん」はどうやってこの感情と折り合いをつけているのだろうか」と自身の悩みを投稿している。この記事に対するコメントが以下の抜粋である。

 発達障害かどうかってのは多分関係ない。いわゆる健常者だってそういう言動をすることはよくある。自分の欠点を、自分の意志の欠如の結果ではなく、単なる現象として説明する言説を手に入れると、人はどうしてもそれを使ってしまう。なにせ責任を取る必要がないわけだから。
 意志と責任はセットの概念で、自分の意志で行ったのだからこそその責任を取らなければならない、というのがこの社会のルールになっている。でもまあそんなのフィクションなわけだ。人間はただの物理現象で、原子分子がエネルギーポテンシャルの坂道を転がった結果でしかない。とはいえ、人間は意志というフィクションを共有することで互いに関係することができている、というのも事実である。もちろん、人間は皆ただの物理現象であって自由意志なんてない、ということを合意することで回る社会というのもありうると思うが、少なくとも現状そうなっていない。個人が意志を持って行動し、その結果を何らかの形で引き受ける、そういう形で人間社会は回っている。
(中略)
 問題はこのゲームからどの程度降りるのかということだ。本来はちょうど良い塩梅に降りるべきである。例えば自分の不注意に関してはADHDのせいだとしてしょうがないものとする。その一方で、自分の能力の範囲内では、意志と責任を引き受けた方が良い。というのは、ゲームに真面目に参加している他の人間と齟齬が生まれるからだ。この増田が良い例である。増田の彼女はゲームを降りすぎており、その問題に気付いていない。彼女は自分のことを「単なる自然現象だと見てくれ」と言っているのだ。自然現象と人間はうまく関係できるわけがない。だからいまの増田は自然現象をうまく操縦する人という役割になってしまっている。これが「理解のある彼くん」の正体だ。様々な理由によって、相手をただの現象だと思い、何が起こっても「雨に降られたようなものだ、仕方がない」と考えてしまう人のことをそう呼ぶのである。[注2]

 増田の悩みに対して、コメント主は問題が発達障害にないと指摘している。問題の根源は、増田の彼女が人間としてではなく、自然現象として見てほしがっていることにあるというのだ。つまり、現在の社会は、意志を持って行動した結果を引き受けることで回っている。そのルールに全く則ろうとしない人々と関わることは、いわば「雨に降られたようなもので、仕方がない」と自然現象を相手にしているようなものであり、彼女の問題はこの社会のルールからあまりにも降りすぎていることだとしている。増田はそもそも人間関係で苦しんでいるのではなく、自然という異質で相いれない存在を相手にしているからこそ苦しんでいるのである。そのうえで、コメント主は増田が取るべきことを抜粋部分に続く文章で助言している。それは、彼女を可能な範囲で今の人間社会のルールに引き込み、お互いの自由な意志に基づいた関係を再構築すること、コメント主の言葉を借りれば「彼女を人間に戻すこと」である。

 このブログコメントは、現代社会において人間とみなされるための明確な(しかしながら、問い直されるべき)条件を指摘している点で興味深い。その条件とは、自分の意志で自分を制御しようとしていることである。そして、この条件の前提には、意志を持った人間と意志を持たない物理(自然)現象という二分法がある。それらは全く異質な存在であり、お互いに相いれることはないとされる。だからこそ増田の取るべきことは「彼女を人間に戻すこと」なのである。この条件はコメント主が言うようにもちろんフィクションだ。しかしながら、このフィクションを前提にすることで、増田やその恋人のような人々は苦しんでいる。本特集の主旨は、このような苦しみを生み出す「意志を制御できる人間 vs それ以外の非人間(自然・物理現象)」という枠組み自体を問い直すことにある。さらに言えば、問い直すだけでなく、新たな枠組みをもとに社会をつくり変える具体的な実践を探ることにある。

 そもそもこの意志を制御する存在としての人間というイメージの起源はどこなのだろうか。下西風澄は、その著書[注3]の中で、現在私たちが「心」と呼ぶ自分や周囲を制御する機能はおよそ2500年前の哲学者ソクラテス=プラトンの発明によるものだと述べている。それ以前、西洋最古とされる詩人ホメロスの時代には、自分の肉体や精神を統括し、周囲の自然と独立した人間というイメージはなかった。人間の感情や行動は自然や神々の一部であり、自然や神々の操縦下にある(今の私たちからするとロボットのように見える)存在こそが人間であったのだという。そして、ソクラテス=プラトンが今の「心」に通じる概念を発明し、普及させていった。下西の指摘で興味深いのは、この普及が具体的な実践として描かれている点である。ソクラテス=プラトンの著作を紐解くと、思想的主張のみならず教育的提言にもその内容が及んでいることを指摘している。例えば、自分自身を制御可能な強い人間を育てるためには、国家が選定したよい物語(ホメロスの詩はこれには該当しない)だけを聞かせるべきだといった教育的提言がなされている。この教育的提言は、民衆に読み聞かせる詩の選別だけでなく、詩を読み聞かせるための調律や楽器の選別にまで及んでいたそうだ。また、時代は下り近代に「心」を再発明したとされるデカルトも、『方法序説』を当時の知識人が使うラテン語ではなく母語のフランス語で書き、民衆に広く読まれることを望んだらしい。このように、現在の「心」のイメージや「意志を制御できる人間」という人間観はある時代に発明され、社会実装のための様々な試みを経て、2000年以上の時を超えて私たちの時代に当たり前のものとして受け入れられているものなのだ。

 このような人間観に対する問い直し自体はすでに何度か行われてきている。例えば、その1つに学習理論として提案された状況論がある。状況論は、それまで心理学の中で自明視されてきた個人の行動変容や知識・技能の獲得としての学習概念への問い直しをはかり、制度や文化、環境といった状況とそこに住み暮らす人間の相互作用を通して生じる創造的な過程として学習概念の視点替えを提案した。そこでの人間は、他者と関わったり、道具を使ったり、つくったりすることではじめて有能さを発揮し、何かしらの選択が可能になる存在であり、人間と周囲の環境は切り分けることができない。この状況論の人間観をさらに推し進めたアプローチとして、学習・発達の社会物質性アプローチがある[注4]。これは、アクターネットワーク理論(Actor-Network Theory:ANT)[注5]の諸概念を状況論に導入し、「個人」という人間観からのさらなる脱却を試みている。このアプローチの特徴は、人間と非人間の対称性を前提としている点にある。つまり、何かをやりたい・できそうだという思い(=エージェンシー)は、人間の意志のみに帰属するのではなく、そこに関わる道具、制度、技術、言説(○○観)といった非人間との相互作用の中から現れる分散的なものだと考える。そして、そうした非人間も背景や歴史があることを前提に人間と非人間の相互作用を描くという「モノ性(materiality)への注目」を提案する。本特集に寄せられた論考の中には、ニュー・マテリアリズムやマルチスピーシーズなどの思想背景を持つものがある。これらも大雑把にまとめれば、「意志を制御できる人間 vs それ以外の非人間(自然・物理現象)」という枠組みとは異なる人間像を提案したものであると言える。これらの思想によって、意志を制御できる人間によって使われる(制御される)モノや自然という一方向的な影響関係ではなく、双方向的にそれらが絡み合う事態を描き、「心は人間と非人間の絡み合いから生じる」という人間観が提案されてきている。

 本特集では、この思想背景に基づきモノ性に着目することで、私たちの心や人間の在り方をいかにアップデート可能なのかを議論したい。しかしながら、本特集の狙いは「心は人間と非人間の絡み合いから生じる」という人間観を前提にした研究論文を集めることではない。確かに、ANTやニュー・マテリアリズムといったアプローチは新しい人間観の提案はした。しかし、「その人間観を実社会の中へいかに組み込むのか?」は十分に語られていない。人間観のアップデートを試みるためには、ソクラテス=プラトン、デカルトが取り組んだように、思想的な主張のみならず、それをいかに普及させるのかについても同時に私たちは語るべきだろう。さらに言えば「モノ性」に注目する、すなわちモノがいかに私たちの実践を駆動し、実践の中でそのモノが変化しうるのかを真に射程に入れるのであれば、本特集の狙いはモノであふれる世界を記述することにとどまらない。むしろ「人間と非人間の絡み合いという人間観をもとにいかなる世界をつくり出すことができるのか?」を問うことが、本特集の狙いとしてふさわしい。

 この狙いに向けて、本特集では4本の論文と1本の座談会記事を掲載する。永岡論文では、永岡氏自身が2017年から取り組む「球体の家」と呼ばれるアートプロジェクトを題材に、私たちの生活の根幹にある家の別の在り方を提案し、それを支える道具作りから現在の社会について考え直している。楠見論文では、教材(教育場面で用いられる道具)の歴史を振り返りながら、これからの時代における教材とそれをもとにした教育の在り方を提案している。南部論文では、都市生活と自然を結びつける具体的な実践として「Comoris BLOCK」が紹介され、工業化社会における自然との共生の在り方が示されている。伊藤論文では、組織や経営という近代的な生活に欠かせない制度を、モノ性に着目することでいかに改善できるのかについての見通しが述べられている。最後に、建築家である大野友資氏との座談会を通して、氏が関わった牧場づくりのプロジェクトについて伺い、人間(や建築家)中心の建築とは違う、建築を利用する生物や人々の視点に立った設計について学んだ。この建築の考え方から、モノと人の絡み合いという人間観をもとに心理学の概念や研究実践をつくり変える上で心理学に足りない視点とそれを補うためのヒントを得た。

 「人間は自然や物、他者といった自分以外のモノを制御できるような特別な存在ではないが、同時にただ自分以外のモノに虐げられるだけの存在でもない」。本特集に掲載された論文や記事からは、そのようなメッセージが伝わる。そのうえで、それぞれの論文や記事では、モノとの間で取り結ばれる、制御する/されるという関係を超える新しい関係性も提案してくれている。これらの提案が、読者の皆さんの生活において、よりよい関係性を構築するための、ほんの少しかもしれないが、とても大事なきっかけになることを願っている。

脚注

注1 はてな匿名ダイアリー「俺が...理解のある彼くんに...?」https://anond.hatelabo.jp/20240120113950 (2024年6月23日アクセス)。

注2 はてな匿名ダイアリー「俺が...理解のある彼くんに...?」へのコメントより一部抜粋 https://anond.hatelabo.jp/20240120190246 (2024年6月23日アクセス)。

注3 下西風澄『生成と消滅の精神史――終わらない心を生きる』、文藝春秋、2022年。

注4 北本遼太、広瀬拓海、仲嶺真、松嶋秀明「発達心理学における社会物質性アプローチの提案――混迷する時代において私たちはいかに新たな活動を創出できるのか?」、発達心理学研究34巻4号、2023年、 267−270頁。

注5 日本語で読める文献として以下のものがある。ブリュノ・ラトゥール『社会的なものを組み直す――アクターネットワーク理論入門』、伊藤嘉高(訳)、法政大学出版局、2019年。ミシェル・カロン「参加型デザインにおけるハイブリッドな共同体と社会・技術的アレンジメントの役割」、川床靖子(訳)、上野直樹・土橋臣吾(編著)『科学技術実践のフィールドワーク――ハイブリッドのデザイン』、せりか書房、2006年、38−54頁、。栗原亘(編著)『アクターネットワーク理論入門――「モノ」であふれる世界の記述法』、ナカニシヤ出版、2022年。

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