今回は○○○
ピッ ピッ ピッ ピッ
いつもは冷たく鳴り続ける機械音しか存在しないこの真っ白な病室に、今日は朝からひっきりなしに人が出入りしていた。
”私の命は今日終わりを迎えることになるのだろうか”
ぼんやりとした意識の中、ちらちらと視界に入り込む人影を追いながらそんなことを考えていると、規則正しく時を刻んでいた電子音がいきなり
”ピーーーーーーーーー”
という不快な音へと変わった。
目の前が暗くなる。真っ暗闇にぽつんと取り残された私。辺りを見回しても何も見えない。
はあ。
ため息をひとつつき、途方に暮れたその瞬間、遠くの方に見えた光の点が私の方にものすごい勢いで襲い掛かってきた。
光の点は帯となり、私の目の前を通り抜ける。表面に何かが写っているのに気がついた私は目を凝らして光の帯をじっと見つめる。すると私の人生における大切な思い出たちが、走馬灯のように浮かんでは消えていっていた。
夕暮れ時の街灯のオレンジ色の灯。手をつないで帰るいつもの路地裏。どこかの家庭の夕飯の香り。お風呂で溺れかけた鼻の痛み。いたずらをして怒られたこと。おやつに用意されていた豆大福。初恋のあの人。だぶだぶの制服。くたびれた通学カバン。受験勉強のお供には深夜ラジオと豆大福。はじめて買った真っ赤な車。彼との初めての旅行。結婚式。ウェディングドレス。父と母と豆大福。愛する子供。子育ての息抜きに豆大福。豆大福。豆大福。豆大福……。
いつしか私の走馬灯は豆大福に占領され、人生の後半部分のハイライトが全て豆大福で上書きされてしまうという恐ろしい事態に陥っていた。
豆大福。豆大福。恐ろしや豆大福。
頭の中は豆大福一色。
右を見ても豆大福。
左を見ても豆大福。
私はもう豆大福のことしか考えられない。
あぁっ、豆大福っ!
しかし、いつの間にか私は光に目が開けられないくらいの眩しい光に包まれ、どこかへ吸い込まれていくようだった。
豆大福っ!戻らないとっ!私の体っ!
必死に振り返り自分の体を探してみたけれど、眩しすぎる光のせいなのか、それとも自分の体から距離がかなり開いてしまったからなのか、どうしても見つけることができない。
そして気がつけば私の体だけでなく、私の過ごした馴染み深い世界のすべてが消え失せてしまっていた。
ああ、もう戻れないのか。
がっくりと肩を落とし、呆然とした私はノロノロと光の中をとりあえず前へ前へと進んでいく。
しばらく歩くとふっと視界が元に戻った。光のトンネルを抜けた私の目の前には、とても大きな川が広がっている。向こう岸に立つ人らしきものは、ゴマよりは大きく、米粒よりは小さいくらいの大きさに見える。
これが噂に聞いたことのある三途の川というものか。想像していたよりも深いし、川幅があるもんなんだな。
さて、どうやってこの川を渡ろうか……
もう私は確実に死んでしまっているので、三途の川を渡らないわけには行かないだろう。
私は前向きに川を渡る方法を考え始める。泳いで渡るのは少し厳しそうだ。橋は……見当たらないな。
きょろきょろと辺りを見回していると、目の前に船着き場があることに気が付いた。
あれ?こんなところに船着き場なんてあったかな。さっき見たときは船着場も船も無かったような気がするんだけど……。
まぁいいや。この船に乗せてもらえばこんな三途の川、すぐに渡ってしまえるだろう。そう考えた私は船に近づくと、恐る恐る船の上にいる男の人に声をかけた。
「あのぉ、向こう岸まで乗せてもらえませんか?」
「もちろんです!どうぞどうぞ!」
男の人は櫂を杖のように使いながら立ち上がると、にっこりと笑って答えてくれた。
日に焼けた肌に真っ白い歯。そして人懐っこささえ感じさせる笑顔。そのせいもあってか、彼は若く見えるが、本当に私が想像しているくらいの若さなのかはわからない。
年齢不詳の好青年というのは、まさにこういう人のことを言うのだろう。
「ありがとうございます」
そう言うと、私は彼に促されるまま船へと乗り込んだ。
「じゃぁ、出発しますね~」
ぎっこぎっことなんだか懐かしい音をたてながら、私と彼を乗せた船は、ノンビリと三途の川へと漕ぎ出した。
「おねーさんは、いい人生を送ったみたいですね~」
ノンビリと進む船と同じようにノンビリとした口調で彼が船を操りながら話しかけてきた。
「え?そんなことまでわかるんですか?」
私は驚きを隠そうともせずに、少し前のめりに彼に答える。
「えぇ、僕もこの仕事、長いですからね~。大体のことはわかりますよ~」
やっぱり若く見えるだけで、本当はかなりの年季が入っているのか。そんなことを考えていると、風がサラリと私の髪の毛をなびかせた。
あれ?
違和感を感じた私は、髪の毛に目を向ける。するとサラサラと私の頬を撫でる髪の毛は、黒くツヤのある、まるで十代の頃のような健康的な髪の毛だった。
え?
さらに髪の毛を触っている手に意識を向けると、シワや血管などはひとつも浮かんでいない、キメの細かい肌になっているではないか。
うそ?私若返ってる⁈
「あ~、びっくりしますよね~。ここに来ると、みんなおんなじくらいの年になっちゃうみたいなんですよね~」
「え?!そうなんですか?!」
私は久しぶりに見る若々しい自分の肌を何度も何度も見直し、触り、懐かしい感触を楽しんだ。
人生の終わりも捨てたもんじゃないな。
思わずニヤニヤしてしまっている私を相変わらず爽やかな笑顔で見ながら、彼はまた口を開いた。
「おねーさんは満足しきってるみたいなんで、今回は、しばらくのんびりお休みして行く感じですか~?」
「え?」
「あっちで満足した後は、こっちで思う存分満足してから出発する人が多いんですよね〜。ここはいいところだし。そうそう、かなり前に来た人、まだ休んでますよ~。あの人はそろそろ、かなりヤイヤイとせっつかれてるはずなんですけどね~。それでもここの方がいいみたいで~。あはは~」
のんびりか。確かに私は人生に満足して終わりを迎えたし、しばらくゆっくりしていくのもいいかもしれない豆大福。
あ
「ちょっと、お兄さん!急いで急いで!私早くあっちに帰んなきゃいけないの!!」
急に慌てて急かし始めた私を見て、彼は船を操るのも忘れ、キョトンとした顔で固まった。
「だ!か!ら!私急いで帰んなきゃいけないの!ボサッとしてないでとっとと私を向こう岸まで連れて行って!」
「はっ!はいっ!!」
私の一喝に彼はビクッと身体を一瞬硬直させた後、人間技とは思えない勢いで船を進ませ、あっという間対岸まで私を運び終えた。
「じゃあ!お兄さん!ありがとう!またね!」
私はヒラリと船から飛び降りると、一目散に生まれ変わり案内所まで走った。
「あのっ!豆大福が!なので、なるはやで生まれ変わりお願いします!ああ、豆大福」
あれ?デジャヴ?私この光景見たことあるかも……。
——
生まれ変わって行ってしまう彼女を見送るのは何度目だろう。
いつもかなり満足した顔でここにくるのに、ゆっくり休むことなくあっちの世界へと帰って行ってしまう彼女は、毎回懲りることなく人生の幕引きの瞬間に、抑えることのできないほどの未練を持ってしまうらしい。
今回は豆大福って言ってたな。
前回はみたらし団子。その前は秋刀魚の塩焼き。そのまた前は何だったかな?
ぼくは彼女がここでゆっくりしていく日を待ち侘びてもいるけど、心の奥では、またバタバタと何かを思い出し、大慌てで帰っていく彼女を見たいと思っていたりもする。
次に彼女と会うのが楽しみだ。
川に浮かべた船にゴロリと転がって、ぼくは雲ひとつない澄んだ空を見つめながら、ふふふっと笑った。