自分の気持ちに素直に生きれたら
先日、ヨシダナギさんのトークショーに参加させてもらいました。ヨシダナギさんは、アフリカをはじめとする世界の少数民族や先住民を撮影しているフォトグラファーさん。
少数民族を撮ろうと思ったきっかけは、幼少期にテレビ番組で見たマサイ族を『かっこいい!』と思い、アフリカ人に憧れを抱いたことだそうです。自分の撮った写真を見て、他の人にもそんな気持ちを抱いてもらいたいという思いで、今も彼らの写真を撮り続けているのだとか。
そんな話を聞けば、やっぱり自分の好きなことを仕事に出来ているって凄い…!なんて思ってしまいそうになりますが、ヨシダさんにとって『写真は、アフリカ人のカッコ良さを伝えるための手段のひとつとして、それがたまたまカメラだっただけで、撮ること自体にはあまり興味がない』というから驚いてしまいます。
さらに驚くことといえば、フォトグラファーという肩書きは自分で名乗った訳ではなく、成り行きでそうなったのだということ。実は、趣味で撮っていた少数民族の写真がメディアで取り上げられ、テレビ出演をすることになった際に「フォトグラファー」という肩書きがついたのだとか。
夢や目標から逆算して戦略を立てるような生き方ではなくて、いい意味で流れに身を任せた生き方をしている彼女。「肩書きは後からついてくる」なんて言葉をどこかで聞いたこともあるけれど、そんな生き方は私にとってすごく新鮮で、とても興味深いものに感じました。
「自分らしく生きる」なんて言葉をよく耳にするけれど、結局自分らしく生きるというのは、なんだかんだいって一番難しいことなんじゃないかと思うことがあります。
特にわたしは、自分でも嫌になるくらい周りに影響されやすいし、自分の意見をはっきりと伝えることが苦手だったりもするからです。協調性があるという見方も出来るけれど、自己主張が出来ないというのは、結局他人軸で生きることに繋がってしまう。
だからそうやって、自分の本心を押し殺しながら生きていると、突然プツンと糸が切れたように心の中の感情が不満となって溢れ出てきてしまうことがあって。その度にわたしは、自分の不器用さに打ちひしがれてしまうのです。
わたしはこれまで、楽しそうに仕事をしている人は、自分の好きなことを仕事にして生きている人なのだと思っていました。だから、そんな風に生きる人たちに憧れたし、その一方で、わたしにはそこまで熱意を持てる対象なんてない…と悩んできたりもしました。
でも結局、それを探すだけでは意味がなくて。自分の興味がある出来事に出会ったときに、自分がどうしたいかという欲求に対して素直になれるか、その意志を貫ける力というのが、結構大切なのかもしれないと思うようになりました。
好きなことをして生きている人たちだって、決して自分がやりたくないことをやらずに生きているわけではなくて、あくまで自分のやりたいことを達成するために必要な努力は行っている。ただ、どうすることが自分にとって幸せかを分かっていて、常にその幸せの為にベストな選択を行なっているだけ。
そんな風に考えると、わたしは好きなことを仕事にして生きている人たちに憧れるというよりも、自分を軸にした生き方が出来る人たちに憧れていたのかもしれないと気が付いたのです。
それはきっと自分勝手とは紙一重な世界で、わたしにとっては「こうなりたくはない」という生き方に近いところもあるのかもしれないけど。わたしももう少し、そんな自由さと意志の強さを身に付けてもいいのかもしれません。
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最近、少しずつではあるけど、自分の気持ちを言葉に出すことを心がけるようにしています。文章ではすらすらと自分の気持ちが書けるのに、誰かを目の前にすると、突然相手を中心に物事を考えて、言いたいことが言葉に出来なくなってしまうから。
ヨシダナギさんは、アフリカ人のカッコ良さを伝えるための手段が「写真」であると仰っていたけれど、わたしにとって誰かに何かを伝える手段は「文章」なのだろうと思います。それから、ときどき写真も。
そんな不器用な生き方しかできないのが、わたしという人間。そんな自分を理解したうえで、少しずつ変わっていく自分を楽しんでいけるようになれたなら。いつかそれが「自分らしさ」と認められるようになるのかもしれません。