学校という存在に疑念を抱きはじめた子供の親にできることは何かについて考えた

上の子はいま区立の小学校に通っている。
二学期が始まってしばらく経った今、学校嫌いになるかならないかの瀬戸際にいる。

予兆はあった。というか、入学した当初から、早晩こういう時期が来るのは確信していた。

なぜかというと、私自身が、自主性を最大限に重んじ、遊びを通した学びを徹底的に実践してくれた保育園での日々から一転して、区立小学校での集団生活を強いられるようになって戸惑う子供に、一体どんな言葉をかけてあげたらいいのかが、まったく思い浮かばなかったから。というか、保育園と学校のあまりのギャップに自分自身が動揺してたから。

別に区立の小学校を否定するつもりはない。考え抜かれた末に今の義務教育があるのだろうというのは想像がつく。でも、子供が通った保育園も、私が育児のバイブルにしている佐々木正美先生も、子供のありのままを受け止める大切さを説いている。そんな世界にどっぷり浸かっていた自分としては、毎朝決まった時間に学校に行き、教える側の大人を前に教えられる子供として振る舞うことを求められる子供が、正直気の毒にすら思ってしまうのである。

今日も朝から浮かない顔をしている。あーだこーだ言った後に「学校行きたくない」とボソリ。学校までの道すがら、「遅刻する時間?」と不安げに私を振り返る様子も気になる。週末に見せる野生味溢れる表情はどこ行った?

子供を学校まで送った後、先週学童に忘れていった安全帽を届けに、教室を覗いてみると、いつもの快活な表情で何やら朝の支度をしている。名前を呼ぶと嬉しそうに走ってきて、私の頭にちょこんと載った安全帽をジャンプで受け取って「ありがと!」と去っていった。まだ大丈夫そうだ。でも、急がねばならない。私には、学校という存在をどう受け止めるべきかについての「セオリー」が圧倒的に不足している。


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私は今、実は仕事がすごく楽しい。月曜朝は新しい一週間の幕開けに少し晴れやかな気持ちになったりもする。ワンオペフルタイムの上に、それなりの残業もせねばならず大変ではあるものの、感覚としては育児の疲れを仕事で発散し、仕事の疲れを育児で発散する、という感じ。究極のエコシステム。

できれば子供達にも楽しい人生を送ってほしい。そりゃ私にも嫌なことは山ほどある。でも、人生全般を、「総じてオッケー」といえるかどうかは、やはり大きいと思う。

では、自分の日常を肯定的に捉えられるようになるために親がしてあげられることは何か?

敢えて言うと、この問題は、普通にやっていては楽しいはずのない、いや、より正確に言うと、他にもっと楽しいことがある中で、それが日本社会のルールだという理由だけで学校に通わねばならない状態を、子供自身にどう肯定的に捉えさせるか、という問題だと思う。

まず間違いなく大事なのは、自分自身が率先して人生の其処此処に楽しさを見つけること。理屈ではなく、そんな生き様を子供に見せてあげることが重要だという点。

次に思いつくのは、やらねばならないことは最小限にとどめ、子供を野に放つこと。間違っても、親が子供のやらないといけないことを増やさないことである。野に放たれた子供が求めてきたら、大人も子供に付き合えばいい。求めてこないなら、放っておけばいい。自由な世界に放たれた時に、子供が何を感じるか、自分のフロンティアをどう広げるか、そこが大事な気がする。周りくどいようだが、そんな経験が積み重なる中で、子供は子供なりにやらねばならないこととの折り合いをどうつけるか、自分で考えるのではないだろうか。

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自分で書いておいてなんだが、これでうまく行くとはとても思えない。セオリーというにも程遠い。

第一、私自身、仮に子供から「なんで学校に行かないといけないの?」「なんで勉強しないといけないの?」と言われた時にどう答えるのか、明快な方針は持ち合わせていないし、方針が見える兆しもない。

でも、とりあえずそれでいいのだ。

子供に聞かれたら聞かれたで、そのとき思ったことを率直に伝えてあげたらいい。そして多分、明快な答えはどこまで行っても見つからないのであろう。

焦らずに、かと言って考えることを放棄しなければそれでいいんだと思う。

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