核兵器と資本家、思想家と倫理。
フランス現代思想とドイツ新実在論は、思想の詩性と散文性の散文性ではなく散文が思想に留まる。
この散文の容れ物が、20世紀半ばからのフランスでは眼前の現実を解釈するフランス人の目の奥にある頭であり、21世紀のドイツでは白紙としての存在しない世界である。
これは、近代にひっくり返された、神が授けた人の知恵と、全知全能の神が作った世界を代替する、デカルトやハイデガーに代表されるような、19世紀の党派的な人知を、引き継いだまま消滅させることとなる。
フランス現代思想では内面の自由の延長にすぎないものが、ドイツ新実在論は思想信条の自由を包括してみせることでそれらに外部を持たせたからだ。
これらの原則が原則であることを根拠に、一元化を施すことで、フランス人の語る多様と、ドイツ人の語る多元に、銘々の思想の散文性が埋められるといってもいいだろう。
また、英国ではチャーチルの雄弁をやめ、移民作家に物語らせながら、国王の肖像画を披露する両立てとなっている。(これは、イギリス経験論を自由主義的な植民地、または衛星国家の戦略的思想と解釈しているが、では、それらは書物の外部にある新自由主義に対してはどうだったかということでもある。)
現在、それらのヨーロッパ、イギリスの思想らしきものの覇権的な性質は、現実世界における多様すぎる多元と、多元的な多様により、彼らの思想の散文性を凌駕しているため、思い通りにならなくなっている。
なぜこのようになり、たとえば、フランス知識人ならば、彼らが中国を最も進んだ資本主義国家だと評するような現実ばかりなのかと言えば、
単純に資本家がそれらの国を切り捨てただけの話なのであり、倫理を背後から担保する暴力としての核兵器の単なる保有国に過ぎなくなったからで、言い値でばらまく倫理が空回りしているだけだからだ。
対外的なものではなく、彼らの自国内向けの思想の杜撰さを見ればわかる。
(ちなみに、イタリアでは、学生が"社会はアガンベンから保護されねばならない"と運動を起こしている)
言ってよければ、新自由主義はグローバル化の現実において、倫理を青天井にする。
なぜならば、思想家を媒介し、人や国家を対象にした倫理は、せいぜい他国民としての人類というかたちで、人類を主語にしうるインターナショナルの領域までにしか落とし込めず、
人類を人間とする以上の主語で地球そのものを語れないからだ。よって、この思想的な混乱は、人間がそもそも鉱物やエネルギーそのものでもないにもかかわらず、人間のまま地球を主語に叙述を行っていることから引き起こされており、
また政治的には国家を主語に語り続けるより他ないという無茶が反映されている。
この現実に、きちんと思想の人為性を落とし込むと、人間は資源ではない。とする政府そのものの解体論や、国家そのものの存続を志向する限りにおいて、資源を右派、金融を左派とするようなとんでもない党派論争が生じうる。
実際の地球的な自然は、コーラのビンを山に捨てても一億年かけて土に還せばよく、恐竜を滅ぼしてからも地球は回っているのであり、
このように、グローバルの思想が語りうる主体が上から抑えつけられているにもかかわらず成立しているように見える。
それは、物自体が人に対して不可知だからであり、グローバリズムの思想を語る人は、人から見た環境美学を表看板にするしかない。
そして、この場合の美学とは、物自体を無抵抗な存在とすることで成立しているが、これもまたインターナショナルまでの政治的な取引きの概念と重複しているため、人為的な介入が可能かのような錯覚を引き起こす。
しかし、知覚を持たない物の方からすれば、そんなものは思弁的実在論ですらなく、思弁そのものですらない。
つまるところ、人間同士がこのような限界の手前で、物の取り扱いに反映された人間の倫理を監視しあうしかないと述べるしかない。