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老子の天とアリストテレスの宇宙(コスモス)の比較。

1.
中庸には中庸に特有の極端さがあり、また、そのように語りうるが、中庸そのものの正体は観測地点の維持そのものにある。
中庸の在り方が付け足されることになる理由だが、中庸から見た極論があるように、極論から見た中庸というものもあり、中庸が持つ観測知点の性質は、極論からすれば単なる動かない点であり、観測が追いつかなくなるか、それどころではなくなれば陰陽の代わりに自身が右往左往することになる。
これは、極論自身が持つ観測地点は自己を通過点とすることができるからで、中庸の観測地点を、制止した通過点として扱うことができる。
中庸における通過点は、己の外側では力の変遷であり、養生訓としては優秀かもしれないが、力が己に向かって来れば右往左往することなる。
釈迦が人間とその関係の内に空を発見し、空もまた空であるため、空であり続けることが難しいところに慈悲と縁起の回路を得たように、
老子は老子で他人の煩悩に呆れ果てた経緯があり、人為があっての無為の成立に目をむければ、中庸も、外部あっての内部という、陰陽を眺める陰陽の片側であることが分かるだろう。
これは、道教が、絶対主義の乱立を過去の背景に持つ古代中国の知識人の権力争いに端を発し、
単一性を目指すところの人為の絶対的な性格が老子の外側にあるためだ。

2.
アリストテレス的な調和の否定が根拠に含まれながら、対義語的な相対も生じず、対流する陰陽とすることで対峙可能になっているからだ。
この、端緒の差異が宇宙(コスモス)と天の違いであり、道教がアリストテレスの晩年から始まっているように見えるのはそのためだ。
しかし、果たして宇宙(コスモス)と天の比較はどこまで妥当なのだろうか。
それは、宇宙(コスモス)自体が調和的な陰陽の性格を有する一方、天は天で陰陽の入れ物としてのカオス(割れ目)の役割に相当する性質を有しているからであり、
また、生成的な調和を目的としたアリストテレスが調和を絶体化できず、また、道教は絶対性を外部化して一旦放置することで不和を燃料に調和へ脱出したことから、比較研究において、研究者が宇宙(コスモス)と天を比較しえても不完全なのは、
道教の天に対置可能なのは、アリストテレスが晩年を送った彼の生家と母親、ひいてはその小さな暮らしにあると研究者が指摘しづらい点にある。
なぜならば、アリストテレス研究に限らず、それは、史学的な一人物が迎えた顛末とされるからであり、また、アリストテレスの晩年の過ごし方については、文献が残されておらず、語りようがないからだ。
生家で母の手伝いでもしていたのであれば、アリストテレスは、晩年に彼自身が大きな調和の達成に敗北したことと引き換えに、小さな調和に隠遁し、彼自身が上善そのものとなってしまったと評しうるのは想像に難くない。

3.
量や距離それ自体や、物理的な時間、死そのものといったようなものは、対象物や構成材料であるがゆえにその剥き出しの在り方がそのまま思想にはなり得ない。
人間はそれらに対して、片思いか襲撃に備えるかと言う風に、対峙するより他ない。

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