#ネタバレ 映画「ラブ&ピース」
「ラブ&ピース」
2015年作品
たいへんな映画が出来てしまった
2015/7/2 6:04 by さくらんぼ (修正あり)
( 引用している他の作品も含め、私のレビューはすべて「ネタバレ」のつもりでお読みください。)
怪獣映画に革命がおきました。
これは史上最高の怪獣映画。
これを観ると、怪獣は着ぐるみかCGか、といった従来の議論は、実は、空しいことだったと感じます。
長文レビューをかいている内に上映が終わってしまってはいけないので、とりあえずお知らせします。柔軟な心を持つ、特にガメラファンの皆様、映画館へ急いでください。
★★★★★ 超える
追記 ( ロックで、忌野清志郎さんで、喜劇してる )
2015/7/2 19:15 by さくらんぼ
もちろん映画「ゴジラ」第一作には、敬意を表します。
あの映画自体が、ある意味、革命でしたから。
しかし、それ以後の、私の知る限りの怪獣映画は、おおむね「怪獣映画はこうあるべし」といった、無意識に近い固定観念に縛られていたように思います。最新作の米国産・映画「GODZILLA ゴジラ」でさえそうでした。
だから、見せ場である特撮場面をどうするとか、着ぐるみか、CGとか、いつも、そのあたりに皆の関心があったのではないでしょうか。ドラマ部分はオマケみたいに感じられた作品もありました。なにか進歩が感じられなくて、マンネリで、いつのまにか衰退してしまいました。作品に精気が少ない。
でも、この映画「ラブ&ピース 」は、まず斬新な感覚のドラマがあって、しかもロックであり、喜劇なのです。それだけで十分に完結した世界なのに、そこに怪獣がチラリと、しかも重要な役どころで登場するのです。さらに怪獣は、呆れるぐらい、着ぐるみ、してます。その姿が、またロックで、忌野清志郎さんで、喜劇してる。
あ~怪獣映画も、とうとうカラをやぶったな…
私はそう思いました。
もしかしたら、これは怪獣映画では無く、単なる喜劇なのかもしれません。でも、日本で当たり前だと思っていることでも、外国では珍重されることがあるように、見方を変えて、これを待望の怪獣映画だと思ってみると、映画史に残る革命児であると思うのです。
思えば、ガメラは良い子の味方でした。
そのガメラが映画から姿を消して久しい。
私のような良い子は(えっ)、たとえ、うそであっても良いから、
忌野清志郎さんが、いや、ガメラが帰ってきたと、言ってほしいのです。
追記Ⅱ ( 大切なことは、ふと想い出すからね )
2015/7/3 9:38 by さくらんぼ
もう、時効だと思いますので・・・若いころの話、同僚に、いつのまにか私と良い雰囲気になった女性がいました。
それで、いろいろあって…ふと気がつくと、うかつにも私が「結婚を前提にお付き合いをしてください」と、彼女に告白したも同然な状況になっていたのです(告白したわけではありませんよ。デートもしていないし)。
ほら、好いている者同士は、一挙手一投足で気持ちを伝え合うでしょ。そんなふうに戯れているうちに、いつのまにか誤解を生んでしまったのです。
彼女からは、遠まわしに「OK」も同然の返事も来てしまいました。
もちろん、私が彼女を好きなことは間違いありません。
でも、「結婚」は別次元の話です。
恋愛は夢ですが、結婚は現実です。
た、たいへんだ…
ちょうど、その直後からカレンダーが連休に入りました。
普通なら嬉しい連休ですが、その時の私は、良心の呵責で、胸をかきむしられるように苦しみました。もしかしたら、私は彼女の心をもてあそんでいたのか。彼女を裏切ったのか。
人生初めての深刻で残酷な失態に、私は憔悴し、連休が明けたら、彼女に本心を話して、誠心誠意あやまろうと思いました。
そして何日かの後…さいわい、恥を捨てて、正直に、私の気持ちを伝える機会を持つことができ、その恥と交換に、なんとか許してもらえました(と信じています)。
彼女は、黙って、うつむいて、静かに私の話を聴いていました。
怒りも、質問も、反論もなく、ただ仏像のように…
あのとき、人の気持ちをもてあそぶことは、人を裏切ることは(たとえ誤解が生んだことであり、不本意なことであろうと)私には出来ないと悟りました。もう二度と苦しみたくないと。
ところで、この映画「ラブ&ピース」。
主人公の サラリーマン・鈴木良一は、会社の上司に言われて、溺愛するペットのカメを、あろうことかトイレに捨てます。その後の半狂乱の様子が痛い。
さらにロック歌手になったときも、上司に言われて、自分を拾ってくれた仲間である、バンドメンバーを計画的に切り捨てます。出世の為です。
さらに恋する彼女も出世のために捨てるのです。
職場から、世間様から、常に切り捨てられる立場だった鈴木が、こんどは切り捨てる役に回ったのです。
どうも、そこら辺りから、鈴木は本格的に壊れていったようです。
人間の感情は、単なる感情ではありません。
私の知っているところでは、人間の感情は「気」に影響を与え、それは、自分の心身だけでなく、相手にも影響を与えます。
だから、良い人間関係は、両者の幸せには大変重要なことです。
他人を蹴飛ばしていく出世、
私にはもう、そんなエネルギーはありませんし、そんな病的な出世なら、私はしたくありません(出世できるはずもないけれど)。私は良寛さんみたいに悠々と暮らしたい。
でも、鈴木はスタジアムで大コンサートをします。そこに帰ってきたカメは鈴木の良心でしょう。彼は心の深層で(みんな地下からやってくるのがミソ、映画「宇宙戦艦ヤマト」でも、映画「リアル・スティール」でも)、捨ててきたものの大きさに気がついたのです。
良心はたいてい遅れてやってきます。
最初はエゴで動いても、あとから良心はついてきます。
戻ってくるのです。
カメも、バンドメンバーも、彼女も、
良心の痛みとして、戻ってきて、一生涯、己の心に住み続けます。記憶があるうちは。
そうして有頂天になっている自分の心の中で騒ぎ出すのです。
この映画の予告編を見た瞬間、涙があふれてきました。
それで観に行ったのです。
映画館でも、何度も涙が流れました。
帰ってきて再度予告編を観たときも泣けました。
泣ける理由はまだわかりません。
追記Ⅲ ( 芸術はパッションを伝達する媒体 )
2015/7/4 15:33 by さくらんぼ
音楽を聴くとき、私はいつも、高音質かつ、小さな音量で聴いていました。
これは昔住んでいた環境が騒音にまみれた場所であり、大きな音にウンザリしていたことによります。もうひとつは、若いころにしていた仕事が、接客で神経をすり減らすもので、OFFには音楽を欲しながらも、刺激のない世界を求めていたからです。
でも、その二つが無くなった今、気がつくと、適正な音量(たいていは大きい音)で音楽を楽しむことを欲するようになっていました。やっと、人並みになれたのでしょうか。
そうすると、文章に行間を読むという行為がありますが、音楽も行間(ディテール)を感じることで、より楽しめることを知ったのです。
ここに、よいオーディオシステムの存在価値の一つがあります。
遅まきながら、この事に気づくと、映画についての疑問も一つ解消しました。
今、私も大型テレビと、BS/CS/DVDなどによる自宅鑑賞が可能です。年齢とともに映画館に出かけるのがおっくうに感じ始めた昨今、このうえ映画館へ行くことの価値を自問自答していました。
そんな中、鑑賞したのがこの作品だったのです。
なぜだかわかりませんが…映画のクライマックス、劇中のカメが自衛隊の戦車に大砲で攻撃されるシーンを見た瞬間、映画は映画館で観るのが最高だと思ったのです。リンゴが落ちて何かを発見した人もいるのですから、カメと大砲を見て何かを思いついた人がいてもおかしくないでしょう。
映画を映画館で観ることのメリットはいろいろあるでしょうが、大画面と大音量で観ることにより、映画の行間が伝わってくるように思います。
映画に限らず、芸術はすべて(たぶん)、作者のパッションを伝達する媒体であり、誤解を承知で言えば、その媒体自体には、本当の価値は無いのだと思います。CDもDVDも、あくまで再生されてナンボのものですから。
むかしLPコードを眺めるだけで音が良いとか言う人が多数いました。たしかに「目利きになるとソレもありかな」と思いますが、眺めただけではパッションまでは見えません。
媒体自体に本当の価値は無いからこそ、人は行間を読むために、高品質の媒体を求めるのです。
だから、当分、映画館通いは、やめないことにしました。
また、録画しても、満足に見る時間が無いTV放送は、録画した幸福感を味わうこと、それ自体に価値があり、心ときめかなくなった録画は感謝しつつも削除する、これが正解なのかもしれません。昔読んだ「人生がときめく片づけの魔法」近藤麻理恵(著)の中の、とある一ページを参考に消化してみました。
追記Ⅳ ( 「アルジャーノンに花束を」 )
2015/7/5 6:15 by さくらんぼ
映画の冒頭、田原総一朗さんがTVに登場し、主人公の鈴木を非難します。
すごいシナリオですね。
田原さんを敵に回したら、だれでも悪役になってしまいますし、だいいち勝ち目がありません。
失礼ながら、田原さんのキャラは、私の親戚縁者の誰かに似ているような気がして、どうも以前から他人様のような気がしないので、よけいにこたえます。
それから、お名前はすぐ思いだせませんが、加勢するTVで顔なじみのコメンテーターの人たちや、女子アナさんからも…とくに男子にとっては美女からの嘲笑ぐらい絶望感にとらわれるものはありません。街中で、自分が裸の王様だったと気づかされるぐらい心身に悪い。
観客は、いきなりバットでぶん殴られたように、一気に物語の中に引き込まれていきます。
私は素人なので良く知りませんが、あの「他人が悪口を言っている感」は、ある種の精神病の症状にも似ていますね。
しかし逆に、そのときでも鈴木は、その良心においては正常なのです。
でも、出世していく時の鈴木は、日本中の人に称賛され、彼も自信満々に生きている様に見えますが、彼の良心はむしばまれていくのでした。
これは…どこかで感じた風景だと思ったら、そうです名作「アルジャーノンに花束を」に似ているのです。
「アルジャーノンに花束を」でも、主人公が知恵遅れの時、彼はまっとうな良心を持っていました。でも、薬を投与され、知能指数が高くなり、いわゆる、お利口さんになったとき、彼の良心はむしばまれていったからです。
映画のラスト、スズキの人生は振出しに戻りましたが、彼が天国に行くためには必要なことだったのでしょう。
追記Ⅴ ( マリアと、映画「ラースと、その彼女」 )
2015/7/6 13:36 by さくらんぼ
マリアと言う名の可愛い西洋人形が出てきます。
女の子に捨てられ、全身うす汚れて、外見は哀れな雰囲気をまとっています。
しかし、哀しみながらも、彼女は気丈にふるまっていて、そのギャップが、見る者の哀しみをより増幅させています。
身長は50センチぐらい。目も閉じるし、脚も動きます。女の子が抱っこして遊ぶのに適したお人形ですね。
そう言えば、幼いころ私の家にもありました(わたしが遊んだわけではありませんよ)。
わが家の人形も、例にもれず、しだいに薄汚れていきました。
きっと、人肌感を出すために、表面が艶消し処理してあり、そのため、汚れが付きやすく取れにくい性質もあるのでしょうね。母親が注意して、ときどき汚れをふき取らせないといけないのではないでしょうか。躾の一環としても。
そうしないと、汚れたと言う理由だけで捨ててしまいかねない。
捨てるのは、女の子はキレイなものが好きだから…と想像します。それに女の子は、同性のお人形には疑似恋愛感情は抱かないでしょうから、よけいにクールなのかもしれませんね。
でも、男から見ると、異性の人形は、可愛くて魅力的な、保護すべき対象として、つまりは疑似女性、疑似恋人として見てしまう可能性を感じます。映画「ラースと、その彼女」は、その延長線上をも描いていたのでしょう。
だから、たぶん男子なら汚れたままで放置しておくことはしません。ラースも人形をきれいにしていました。
ですから、汚れて捨てられた人形で演歌を謳っているこの映画は、人形に疑似恋愛をする男視点なのでしょう。これ、もしかしたら監督も気がついていないのでは。。。
私も男子ですから、マリアは、私にとって、この映画の大きな泣きツボの一つでした(もちろん、女性が泣いてもおかしくありませんよ)。ここで起こった感情は、映画のイメージを裏から支配していた様な気もします。
マリアの他にも、ご存じカメさんや、猫のぬいぐるみ君、ロボット君など、生物、無生物、色々出てきます。観客は皆、どれかに感情移入できるのでしょう。
芸能界では「子役と、動物にはかなわない」とか言われている様ですが、意外にも、その定石どうりの古風な映画だったのでしょうか。
ちなみに、ひょんなことからやってきた私の家のテーブルランプには、エンジェルの絵が書いてあります。最近は天国的な白無地が良いな、と思いだしたのですが、すぐ変えるわけにはいかないのです。
なにしろ「腐っても鯛」、いや「汚れてないけどエンジェル」で、いつも私を守ってくれてますからね。ガメラの留守中は。
追記Ⅵ( タイムマシンがあれば )
2015/7/7 10:32 by さくらんぼ
>追記Ⅱ ( 大切なことは、ふと想い出すからね )
>もちろん、私が彼女を好きなことは間違いありません。
>でも、「結婚」は別次元の話です。
本日は「七夕」なので、それに免じて、もう一言、書かせてください。
先日TVで「バブルへGO!! タイムマシンはドラム式」をやっていましたが、 もし、今の私も、あの恋愛の時にタイムスリップできたとしたら、過去の自分に、何を助言できるのか…
今なら迷わず、
「好き同士ならデートすれば! 不倫でもないのだし…男と女なんて、デートしているうちに、行きつくところに行きつくもんだよ。もっと、肩の力を抜いて生きなさい」。
と、言ってやりたい。
天ぷら蕎麦など、たべながら。
追記Ⅶ ( 麻生さんはエイドリアンか )
2015/7/8 11:38 by さくらんぼ
この映画は裏「ロッキー」でしょうか。オマージュの可能性は…。
主人公があこがれた寺島裕子(麻生久美子さん)は、映画「ロッキー」のエイドリアンそのものの雰囲気ですし、カメが出てることは言うまでもなく、さらにクライマックスには、リングのロッキーに、エイドリアンが群衆をかき分けて、駆け寄るシーンも再現されています。
映画「ロッキー」との違いは、「ロッキー」では出世しても旧友たちを大切にしましたが、映画「ラブ&ピース」では、どんどん切り捨てていくことです。
どこかで「出世の秘訣、それは古い友人に会わないこと」などと言う箴言も聞いたことがあります。たしかに「レ・ミゼラブル」では、それも感じられました。
でも映画「ラブ&ピース」では、旧友を捨てることの罪深さが感じられましたね。
そして、もう一つ…
主人公から捨てられた寺島は、ずっとメガネをしていました。
エイドリアンはロッキーからやさしくメガネをはずしてもらいましたが、寺島は違います。寺島は、あのオモチャたちと同列に固定されていたのです。
そう考えると、寺島の、薄汚れたマネキン人形のような無表情さが意図されたものだと分かります。演出の失敗では無くて。
ところで、映画とは、あんまり関係のない話ですが…
昔、勤めていた会社あたりへ出かけるのも、同窓会へ行くのと同じぐらい…怖いです。
街も人も、みんな、変わっちゃっているだろうから。
その点、京都は、いつも変わらなくてよいですね。
もちろん京都以外のお寺も、地元の氏神様も。
これから、夏本番。
どこか、神社かお寺の前にある、古い駄菓子屋で、かき氷(氷イチゴか、宇治金時が好き)を食べたい。木陰にある長イスで、セミの声を聴きながら。
それは、ありそうで、なかなか、見つからないお店なのです。
追記Ⅷ( お面のような声に萌える )
2015/7/9 9:02 by さくらんぼ
加賀・金沢は、私にとって、青春の日の、思い出深い場所の一つです。
先日、NHKのTV番組で、艶やかな九谷焼のお皿に乗せた加賀料理を映していました。ワイングラスの台座も九谷焼でした。
あれは本当に素晴らしい。
あんな料理をランチやディナーで食べることができたら、単なる栄養学的なクオリティーを超えて、芸術的なもの、愛情的なもの、その両方のエネルギーも摂取できるのだと思います。
映画「ラブ&ピース 」も、その映像世界が美しい。
九谷焼の「朱色」的美しさとは違い、もっとポップなものですが、その色からでるエネルギーの波動は、観る者の心に栄養分を与えてくれていたと思います。
ところでカメのピカドンの声は、ピカチュウの声優である大谷育江さんとのことですが、これが、実によくマッチしていました。
ピカドンは大きく成長して、クライマックスにはコンサート会場の、客席の後ろから巨大な顔をだします。あのピカドンもまた、空気で膨らませたビニールのオモチャ的造形で、とても可愛いのです。
あの滑らかなビニール的質感と、丸く尖った鼻の、旅客機的造形は、大谷育江さん演ずるピカドンの声と、共感覚的にもマッチしているのです。
大谷育江さんの声は、私にはピカドンの鼻の様に見えるのです。
だから、違和感なく、と言いますか、感動的ですらあるほどに、お面の様にマッチした「声」だと思いました。
追記Ⅸ ( よだんですが公園編 )
2015/7/10 8:11 by さくらんぼ
> あの滑らかなビニール的質感と、丸く尖った鼻の、旅客機的造形は、大谷育江さん演ずるピカドンの声と…
微風の中の常緑樹の葉 → やさしさがセクシャルな、小川のせせらぎ音。
散歩する犬の長い鼻 → いくらか意志の強い、船の汽笛。
スズメの鳴き声 → 空に浮かんだ、ピンポン玉大の、小さな蓮の花。色はそのままピンクでもよいのでは。
春先、ごくたまに聴くウグイスの鳴き声 → 弓なりになった 長さ1mほどのビニールホースと、その上にかぶせた折り紙のかぶと。色はピンクか。
飛んでる蚊 → 弓なりになった長さ1mほどの針金、色は黄色か。
普段はこんなこと意識して散歩しているわけではありません。
空がきれいだな。
新緑がきれいだなって、
ただ、それだけです。
追記Ⅹ ( 君の行く道は )
2019/6/6 8:41 by さくらんぼ
ゴジラなどの怪獣映画は、子どもの頃からの大好物。でも、CGの映画「ジュラシック・パーク」を観たことで、急に、着ぐるみ怪獣が、子どもだましに見えるようになってしまいました。
しかし、そのCGも、最近は見飽きてしまったようです。
CGが凄いだけでは感動しなくなってしまいました。
今、私の感動の軸足は「人間ドラマ」にあって、怪獣には脇役を求めるようになりました。
そんな私が、今最も気に行っているのが、この映画「ラブ&ピース」なのです。
アメリカのゴジラ君は、どこへ歩いていくのでしょう。
追記11 ( 「新型コロナ」という怪獣 )
2021/2/23 13:58 by さくらんぼ
>でも、この映画「ラブ&ピース 」は、まず斬新な感覚のドラマがあって、しかもロックであり、喜劇なのです。それだけで十分に完結した世界なのに、そこに怪獣がチラリと、しかも重要な役どころで登場するのです。(追記より)
怪獣映画の進化系として、「怪獣が暴れている世界の片隅で、ひっそり生きている人々を描いた、大人向けの人間ドラマ」を観たいと思っていました。怪獣との戦争ではなくて。
その系列が、映画「 ラブ&ピース」だったわけですが、ウイルスというミクロの怪獣があばれているコロナ過にあっても、主にTVでそのようなドラマが作られていることに気づき、少しだけ嬉しくなりました。
「新型ウイルス」というセリフが出て来るだけで、ウイルスとは無関係なドラマが展開するドラマたちの事です。
追記12 2022.5.16 ( お借りした画像は )
キーワード「人形」でご縁がありました。ほっとする愛らしさですね。少々上下しました。ありがとうございました。
( 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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