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シン・俳句レッスン176
現代俳句
1月号が送られてきたのだが、全く読んでいなかった。やっぱ動画からだよな。
他所の芝生は青く見えるのか?いいことを言うと思ったが「古い俳句はいらない、新しい俳句を読む」ということに大いに賛成するのだが、なかなかそういう現状ではないような気がする。観光地俳句も選定されることが多く、今の変化を詠んだ納得する句が少ないのが現状だ。地区の高齢化問題は避けられないのだろうが、そこに若手が切り込んでいくのは難しいというか、最近は若手の保守化も進んでいる。
NHK俳句
題「双六・絵双六」
選者:堀田季何、レギュラー出演:庄司浩平、題「双六」。切字の代表「や」の効果を徹底分析。季何流切字「や」の使い方とは。柴田と庄司は「や」を使いこなせるのか!?
堀田季何さんは俳句のテクニック論だから、役立つし面白い。今回は切れ字二回目。前回は何をやったか忘れていた。
切れ字は直前のコトバを引き立たせるということかな。今回はその中でもっとも汎用が高い「や」の切れ字。
切れ字というと、
かな、けり、ぞ、し、せ、もがな、か、よ、じ、や、らむ、つ
とあるが現代語で使えそうなのは「か」「よ」「や」ぐらいか?その中で韻律の引き締めの効果があるという。
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
もう王道の句だった。
さらに「残像」を現す。
死や霜の六尺の土あれば足る 加藤楸邨
「死」が俳句全体の印象を語っている。一字+やもカッコイイ。
詩や花も鳥も三角ベース廻る 宿仮
難しいな。結句が字余りだと締まらない。
「残像」+詠嘆
長き死の苦しみを解き給ひいしや 稲畑汀子
語尾の「や」は「解き給ひいし」を強調している。これは介護疲れから解き放たれたように読めるが。「給ひ」がポイントなのか。尊敬語。
<兼題>堀田季何さん「囀(さえずり)」、西山睦さん「卒業」
~1月20日(月) 午後1時 締め切り~
文芸選評 西村和子「年賀状」
俳句で「年賀状」。西村和子は今の年賀状事情を知りたいというのだが、このテーマ自体が高齢化問題のようで、死んでいたり、病気だったりする中で年賀状のやり取りをする。もうそういう習慣を終わらせたいと思っているはずなのに、何ゆえそういう句は少ないのか?
年賀状と言えばそのノルマに苦しむ郵便局員とか、課長連中が下請けの者に強制するとか、そんなことしか思い浮かばない。その裏側でけっこう大変な事実があるのだ。年賀状が捨てられた事件とか。それは郵便配達人の過酷さに他ならないのだが。
今日の一句。
郵便配達は大量の年賀状を処理する 宿仮
事実だけの句で面白くなかった。
文芸選評【俳句】投稿フォーム
1月18日放送 兼題「水仙」
※締切 1月13日午後11時59分
大解剖! 魔法の一音
『俳句 2024年10月号』から特集「大解剖! 魔法の一音」。
【総論】「一音に出来ること……今井 聖」では短詩と言われる俳句の中で効果的な一音の使い方(主に助詞だろうか)について述べているのだが、一音の言葉を使った俳句とか芭蕉の一音の句とか、多少意味がズレると思った。
そんな中で注目したのが井上弘美「置き換え不能の一音」。
曼珠沙華抱くほどとれど母恋いし 中村汀女
一読ではわかりにくいが「とれど」は逆説の助詞で「~けれど」の意味だという。逆説は俳句には有効であり、ここでは「抱くほど」とリフレインっぽく逆説になっていた。「ぬ」の打ち消しよりも迷いが感じられるからだろうか?「ぬ」だとそこでも切れて三段切れになるのか。
曼珠沙華抱くほどとれば母恋いし
これは順接であるが、こっちでもいいような気がするが、逆説の場合その曼珠沙華を取ることが虚しさを掻き立てるのかもしれない。つまり一輪(数輪)は取ったということなのか?
一燭に春寧からむ伎芸天 阿波野青畝
「に」は場所を示す助詞だが説明的になると敬遠されるが、「春寧」がよくわからんが「はるね」で春を尋ねるということか。むは否定形なので、「一燭に」はまだ春が来ないのか?伎芸天の微笑みが春のようだということらしい。ややこしいな。解説がないと理解できない句だった。
新聞なれば遺影ちいさく冴えきたりき 石田波郷
「き」が打ち消しの助動詞で痛恨を現すという。でも上五で収まっているのをわざわざ字余りにしたのか?これも難しい。
墓石に映ってゐるは夏蜜柑 岸本尚毅
この句は小野あらたが取り上げた句で、俳句の「は」も説明的で省略したり「の」に変えたりできるのだが、ここでの「は」は上五の「夏蜜柑」を強調するのだった。「は」を省略すると夏蜜柑はぼんやりしてしまうという。つまり墓石に映ったというそのものの姿だが、「は」で切り替えることによって夏蜜柑の木がたち現れてくるというのだった。「は」の使い方が重要だということだ。
芭蕉の風景
先週は小澤實『芭蕉の風景下』をやったのだが、下巻を返却して上巻を借りてきたので「第三章 笈の小文」から。「笈の小文」は弟子である杜国との京に出るが愛弟子との愛の旅だという。
よし野にて桜見せう檜の木笠 芭蕉
よし野にて我も見せうぞ檜の木笠 万菊丸
芭蕉の句は桜よりも檜の木笠(旅姿)を詠んでいるのだが、弟子(杜国=万菊丸)も唱和する。和歌でも主人に唱和する者たちという構図だが万菊丸は季語もそっちのけで芭蕉の追従するのだった。
よそ見みて我も檜の木笠なし 宿仮
星崎の闇を見よとや啼千鳥 芭蕉
千鳥が「闇を見よ」と鳴いたという歌だという。星崎という地名からの連想なのか、闇に浮かぶ星の情景。鳴門に宿泊した地に「千鳥塚」という句碑があるという。星崎は桶狭間の合戦で多くの戦死者が出た場所なのでそれを追悼したという。
ガザの闇飛ぶ鳥も地下壕の下 宿仮
寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき 芭蕉
この二人は杜国ではなく越人で、杜国は罪人として謹慎中で(よくわからないが)、それを尋ねる旅だという。越人は貧しかったが米問屋の杜国の援助を受けていたので、芭蕉と共に懐かしい人を尋ねようという旅になったのだと言う。その道中での宿で思い出を語る二人の姿なのか?
寒ければひとり寝る夜も暖かし 宿仮
ホットカーペットがあるから。