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ブラタモリ流「武蔵野」の愛で方

『武蔵野夫人』大岡昇平(新潮文庫 – 1953)

不倫小説の極致。昼ドラ顔負けドロドロ夫婦劇!
  間違いなく叫びたくなる、衝撃のラスト。

貞淑で、古風で、武蔵野の精のようなやさしい魂を持った人妻道子と、ビルマから復員してきた従弟の勉との間に芽生えた悲劇的な愛。
――欅や樫の樹の多い静かなたたずまいの武蔵野を舞台に、姦通・虚栄・欲望などをめぐる錯綜した心理模様を描く。スタンダールやラディゲなどに学んだフランス心理小説の手法を、日本の文学風土のなかで試みた、著者の初期代表作のひとつである。

大岡昇平は戦争文学の作家ばかりではなく、日常生活の日々の営みも描いた作家でもある。『武蔵野夫人』は戦後のベストセラー恋愛小説であり、メロドラマ小説としても傑作。日本の『ボヴァリー夫人』なのか?

『野火』で極限状態の精神を描いた後に日常の生活の姦通を描いたのはなんでだろう。文学だからか。スタンダールを翻訳している大岡昇平らしき大学教授とビルマの戦地から還ってきた青年(こっちらも大岡の分身)。姦通罪が廃止になった欧米化が進む武蔵野の「ブラタモリ不倫版」。土地も不倫も「高低差」だよね。障害が大きければ大きいほど盛り上がる。武蔵野の「ハケ」の共同体(祖父から続いてきた家とその関係性)を守ろうとする貞操な妻であるヒロイン道子(そっか美智子さんと重なるのかな?変換して気がついた)と対比される富子は現代風な女。

よろめき夫人である道子とビルマ帰りの勤とのドラマは村山貯水池での嵐の接吻のシーンが山場だった。それ以降はグダグダになっていく。「ブラタモリ」という感じでブラブラ貯水池のホテルというのが武蔵野の尾根から辿っていく女体を舐めるような散策とした散文でちょっとエロティックだ(タモリ好み)。でも一線を超えてはいない(接吻はしたけど)。プラトニック・ラブ。道子の「誓い」という言葉、キリスト教の契約のような。だけど神ではなく人間関係の所詮「誓い」だった。

勉は富子の誘惑によってすぐに裏切ってしまう(このへんは男尊女卑の性的関係なのか)。富子は夫とは満足できずに外に出たい女。自立の道(ミシンを買って洋裁とか)を探っていくがまだ明確な意志というよりは「ハケ」(家父長制的な共同体からか?)から逃れたいのだ。

日本には戦後まで「姦通罪」という罪があった。それが廃止(新憲法1947年)されて新しいスタイルの女が登場してくる。1950年発表だから話題になったわけだった。ただ今の価値観とは違う。ヒロインは道子の方だから。

参考映画

『武蔵野夫人』溝口健二


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