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書くことで「生成変化」するカフカの短編集

カフカ, 池内 紀 (翻訳)『変身ほか』 (カフカ小説全集)

ある朝、目覚めるとセールスマンのザムザは一匹の虫に変身していた。なぜ虫に変身したのか、作者は何ひとつ説明しない。ひたすら冷静に、虫になった男とその家族の日常を描いてゆく。

【編集者よりひとこと】これまで何人もの訳者によって訳されてきた『変身』。池内紀訳は次のようにはじまる。「ある朝、グレーゴル・ザムザが不安な夢から目を覚ましたところ、ベッドのなかで、自分が途方もない虫に変わっているのに気がついた。甲羅のように固い背中を下にして横になっていた。

カフカの生前に公に発表されて本の形になった作品や雑誌に掲載された短編集である。カフカの長編では、ブロートの手が加えられており(ブロートにより編集された)、純粋にカフカの作品と世に送り出されたのはこれらの短編だけなのである。『変身』は短編というより中編だが。

カフカの作品の特徴はズバリ「生成変化」。これは誰も言っている。特にドゥルーズのカフカ論はお勧めかも。やたら言葉が難しいがドゥルーズは勢いで読めばいいのです。立ち止まらないで振り返らないで一気に読むと快感が得られる。

観察

「観察」という短編集は、まさに生成変化を記述したものに他ならない。一番感銘を受けたのは、「インディアンの願望」。わずか四行の超短編なのだが、インディアンが疾走する馬に乗り、馬車も手綱もすべて投げ捨て裸の馬と共に荒野に消えていく。消失の願望は、カフカの願望であり、それをインデアンの願望として生成変化させて、馬と共に遥か彼方へ疾走していく。

「観察」が「朝顔の観察日記」でもそうだが、種を蒔いて、双葉が出て、本葉が出て、蔓を巻き、蕾を付けて、花が咲く。朝顔の花の色を丁寧に描くだけではないのです。そういう過程を描く時間が「生成変化」ならば、『変身』も虫の姿を描くことではない。

判決

カフカが一晩で一気に書いた短編。この短編によってカフカは作家としての手応えを得たと言われており、この時期に付き合っていたフェリーツェ・バウアーに捧げられている。しかし、描かれるのは父親のことで、カフカの父親コンプレックスが読み取れる。

それによってフェリーツェ嬢とは婚約破棄をするぐらいに、カフカは父親的なるものの権力について書き続けることが使命となるような。作家というよりそれが宿命として、刑罰を受けながらも殉死する覚悟を決めるのである。ある意味キリスト教的な祈りでもある。カフカに取っては祈ること=書くことなのである。

火夫

『アメリカ(後に失踪者という題)』の第一章となる断片。ヨーロッパで不祥事を起こした道楽息子が新大陸アメリカへ希望を持って渡るまでの、船の途上の中でもドタバタ喜劇を繰り返す。当時のアメリカの無声映画(バスター・キートンとかチャップリンのようなドタバタ劇)に影響されたようなコミカルな短編。カフカは、その後に長編小説としての生成を望むのだが未完に終わった。それ以降も長編小説の夢を望みながら完結させたことはなかった。それがカフカ文学といえばカフカだった。終わりのない結末。

変身

『変身』の冒頭部分で夢から目覚めた虫になる描写部分、毒虫から害虫、巨大な虫までいろいろあるが、最近翻訳した多和田葉子「新訳カフカ『変身かわりみ』多和田葉子の『変身』はグレゴールが変身の途上にある状態で「ウンゲツィーファー(生贄にできないないほど汚れた動物あるいは虫)」としている。つまり体と心が完全体としての甲虫ではなく、ドイツ語と日本語が不完全さを残しながら変容する。

完璧な訳文よりも不完全さの形がグレゴールの体と心の不合理さを言い表している。変身した後にも人間性を失わない心と体の葛藤と体は獣虫になってしまったそのモガキと。それと『変身』は、グレゴールだけの話でもなく家族小説なんだとあらためて読みなおした。「変身」が生成変化というのも関係性をふくんでいるからである。

『カフカの『変身』の"冒頭文"の邦訳と英訳のリストです‼️』
https://ameblo.jp/kafka-kashiragi/entry-12639910693.html #アメブロ @ameba_officialより

ここで体験談をひとつ。ぎっくり腰になって動けない状態になったことがあり、まさにカフカ『変身』のようなことが起こりました。会社はどうするんだとか誰かに連絡しなくてはとか、今はスマホがあるのですぐ救急車は呼べますけど、虫がひっくり返った状態で動けないのはまさに巨大な虫のように感じたものです。

グレゴールを巡って家族は彼とはコミュニケーションはできない。まだそれがグレゴールだとは思っている。グレゴールの方も家族だと思っている。だから母は直接グレゴールを見ることは出来ない。お手伝いさんは「フンコロガシ」と呼びつけて逃げることもなく世話ができるのだ。下宿人の三人にとっては人ではなくただの害虫だった。

下宿人の前にグレゴールが姿を表したときに、妹がもうグレゴールとは違うと宣言をするのだ。兄さんならとっくにいなくなるはずだと。それでグレゴールは消えてしまう(死んでいく)。死骸だけが残されて、それをお手伝いさんが処理をする。兄さんが消えただけの家族。だから三人はまた家族として暮らしていける。父親は威厳を取り戻し勤めに出ていく。三人とも仕事をもっており、ザムザがいない家族だけで暮らしが成り立っていく。

兄のグレーゴルが死んでしまい、娘(妹)と母が父親にキスをするシーン。それによって妹グレーテが虫の飼育係から結婚を望む娘へ変身していく話になっている。その物語の関節の外し方が、メルヘン(ハッピーエンド)だった。


流刑地にて

カルージュ『新訳 独身者機械』という本があり、カフカ『流刑地にて』に出てくる「処刑(拷問)機械」がマルセル・デュシャンが制作した〈大ガラス「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」という作品の共通性を述べたのだ。まずカフカの「処刑機械」が上下に別れた台座で上が女製図屋によって書かれた死刑の宣告文(文字)で下に処刑人が横たわり、彼の身体に刑罰が刻み込まれて処刑される仕組みの機械である。

デュシャンはカフカの作品を読まずに制作したのであり、シュールレアリスムのブルドンの解説でそれは無意識の記憶を刻みつける精神分析の概念から来る性的(エロッティク)な癒やし(夢)の(独身者)機械であるという。

夢分析がシュールレリスムの自動筆記と関連付けられるように、カフカの処刑機械も自動筆記で刑罰が書かれる、それはカフカにとっては書くことの快楽であると同時に死をも意味するフロイトが言う無意識の「エロスとタナスト」なのだ。

例えばそれは、ディックのアンドロイドやリラダン『未来のイヴ』、攻殻機動隊から初音ミクまで、独身者の「エロスとタナスト」の表出。ドゥルーズが「器官なき身体」概念の元になったのも「独身者機械」だということである。

田舎医者

14の短編集。それぞれ独立した話で統一感はない。先が見えないというネガティブさはあるのか。東京に雪が降った日に、雪の小説で思い出して読み始めたのだ。『田舎医師』はまさに吹雪の夜から始まる。往診に行かなければならない医者が馬も逃げられ途方に暮れていたら突然馬とやってくる馬丁。

馬丁は救世主でもあるのだ。家政婦が襲われるかもしれないと悪魔のようにも思える。善悪では判断出来ない使者。死にかけている、自殺したい子供がいる。それはカフカ自身かもしれない。夢の世界のように展開していくのだ。夢の不条理性。

解説で少年の肺に咲いた薔薇(ローズ)は家政婦の名前でもある。死とエロス。独身者の「エロスとタナスト」はカフカのテーマの一つである。窓から合唱隊が登場して、「(子供を)裸にしろ、ヤブ医者、助けられなければ殺してしまえ」と歌う。シューベルトの「魔王」のような感じか。

この『田舎医者』には注目すべき短編が他にも多くある。

『掟の門前』掟とはトーラであり「聖書」なんだと思う。カフカが「聖書」の世界からユダヤ教に入ろうとする男を描いて、そのトーラは何十にも解釈可能だからなかなか理解できないので入ることが出来ない。でも、それは男の道だったという解釈。現代風にするなら積読の門前で立ち止まってないで本を開けということ。本を閉じたままで何も得られない。

『家父の気がかり』有名なへんてこ生物?「オドラデク」が登場する。「オドラデク」も『流刑地にて』に登場した独身者機械の弐号機のようなものである。特別役に立つわけでもないが捨てておけないものなのだ。カフカの癒やし。

『ある学会報告』

猿が人間に進化する過程を描いたものだが、聖書では進化論を認めない。カフカの時代にそうした「進化論」的思想が出てきたのだと思うが、この短編の「進化論」は猿が人間に捕らえられてサーカスに売られて人間の猿真似芸で生きていくというフィクションである。

アフリカで捕らえられ船上で檻に入れられる。猿は檻を後ろ向きに板を眺めて出口を探す。猿が辿り着いた逃走線は、人間に隷属化すること。アフリカの奴隷制を思い浮かべる。それを学会で報告しているのだ。猿の告発書。

有頂天の『monkey's report(ある学会報告)』はカフカの作品を正確に歌っていた。

断食芸人

カフカ晩年の4つの短編。どれも素晴らしい。「白鳥の歌」のような短編集。

「最初の悩み」

サーカスの空中ブランコ乗りの話。空中ブランコ芸人は、一日中空中ブランコで生活をし始めたが、町から町へ移動するのに一本の空中ブランコしかなく、どうしたらいいか悩むという話。一本のブランコの反復は、振り子の時間である。もう一本のブランコに飛び移れないベルグソンの時間(エラン・ヴィタール = 生命の飛躍)が出来ない状態なのだ。カフカの飛翔は、死の飛翔かもしれないのである。

「小さな女」

お互いの存在に不満を抱いているかもしれないというディスコミュニケーションが語られる。意識内にある小さな女とは?「小さいおじさん」に比べてうるさそう。

「断食芸人」

断食することを見世物にする芸人。檻の中で観察されるが、生き続けているうちに存在を忘れ去られ、死んでしまう。そして、生命力溢れるヒョウに入れ替わるのだ。忘れ去られてしまうことが死に結びつくのか?カフカの作品は、残るわけだが。

「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」

カフカの「白鳥の歌」。最後の作品は、歌にならない声であるが注目を集める歌姫の作品である。一族の歴史の記憶を呼び覚ます歌にならない声だという。「奇妙な果実」を歌うビリー・ホリデイを想い出す。

歌姫の名前はヨゼフィーネ。彼女が歌うのを聞いたことがなければ歌の力がわかるまい。歌に心を奪われない者はひとりもいない。 「歌姫ヨゼフィーネ、あるいは二十日鼠族」


西岡兄妹の『カフカ』は面白い。

『カフカ〈新訳〉: マイナー文学のために 』ドゥルーズ /ガタリ , 宇野 邦一 (翻訳)



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