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文庫解説の「極妻」か「ジャンヌ・ダルク」か、それが問題だ。

『文庫解説ワンダーランド』斎藤美奈子 (岩波新書 – 2017)

基本はオマケ、だが、人はしばしばオマケのためにモノを買う。マルクス、漱石、松本清張。『武士道』『なんクリ』『永遠の0』──古典名作にベストセラーがずらりと揃う文庫本、その巻末の「解説」は、読み出すとどうにも止められないワンダーランドだった! 痛快きわまりない「解説の解説」が、幾多の文庫に新たな命を吹き込む。

文学毒舌姉ちゃんの斎藤美奈子は、「解説の女王」だった。「女王」という感じはしない。「解説の極妻」とか「解説のジャンヌ・ダルク」とか。ちょっと褒めすぎか?この人の解説には出会ったことはないのだが、文芸批評は面白い。以前読んだ『妊娠小説』とか『日本の同時代小説 』(岩波新書)とか。

文庫本の解説がいろいろあるのは知らなかった。古典とか言われるものは、その時代での解釈が違うから、けっこう批評的なものもあるという。現役作家のはヨイショや出版社の売らんが為の解説が多いとか。村上龍の解説があって村上春樹はないというのも面白い。村上春樹はファンが多くて書きにくいというのがあるのかな。その時代の批評家が作家に寄り添っているパターンもあるそうだ。中上健次と柄谷行人のような関係か。村上春樹だったら、加藤典洋。村上龍は三浦雅士。三浦雅士の解説は、読んだことがあった。最近では、綿矢りさや金子ひとみの解説は「高級感想文」というのは手厳しい。

一番は渡辺淳一の文芸ホステス(女流作家)を侍らせた解説。セクハラ・オヤジの文壇バーのような解説。渡辺淳一は、読んだことがなかったのでこの着眼点は面白い。そうだよな、年下の女性出会い性の開発をすることに快感を覚えるオヤジの不倫ポルノ小説というのは当たっていると思う。

そういう解説もあれば有名作家にべったりホモ(同質性)解説のよくわからない世界があるという。それはゲイ(芸)を持つ解説ではないのだ。ミソジニー(女性蔑視)的な大人の男同士の絆(文学通)にしかわからない世界があると言うような。川端康成の三島由紀夫の解説や小林秀雄の江藤淳とか。小林秀雄は、中原中也との三角関係を理解して初めてわかるということだった。

斎藤美奈子はそういうホモ(同質性)の文壇世界を明らかにする。正統性のようなもの、異端であることを許さない世界。それは文壇による師弟関係や同質性を求めるものが戦前回帰的な思想に繋がっていく。そのもっともたるものが、夏目漱石の中にあるホモソーシャル的な群れたがる男たちの世界。これは彗眼である。漱石文学の女性批評家からの読みという異端性は面白いと思う。

太宰治に対する井伏鱒二の「一億人の弟」のキャッチコピーは面白い。

解説は、同時代の作家よりも当時の読者だった者の時代性を感じさせるものが作品を読む上では役に立つ。それを知ると知らないとでは作品の質が見えてこないものがある。柴田翔『されどわれらが日々』、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』は軟弱男のラブストーリーに当時の時代風潮の空気が流れている。前者は、60年安保、後者は70年安保。それと作品には関係ないが、

フランワーズ・サガン『悲しみよこんにちは』の日本での流行時(60年代末)は、ゲバ棒を持った男子学生が密かに読んでいてという小池真理子の解説。ジーン・セバーグの映画の影響だと思う。セシル・カットはこっちだった。

翻訳小説の場合、翻訳者の解説が多いが、映画化された原作との違いで映画を腐す解説は、たいていの場合原作のイメージが強すぎるほど、映画でのイメージと乖離してしまう場合がある。でも、それは一概に映画が悪いとも言えないのは、『ティファニーで朝食を』だったらオードリ・ヘップバーンを観に行く映画だからである。カポティ・ファンは映画での改作を許さないけど。このへんのアメリカ文学はホモソーシャルなものが多いが、それをハリウッドは女性とのラブ・ストーリーで描くのだ。

『ハムレット』は騎士道精神の行動型ハムレットか軟弱ハムレットか、それが問題だ。新潮文庫の福田恆存は前者で、白水Uブックの村上淑郎(英文学者)は後者。最近の解説では不良野郎(パンク?)。

読みの新たな発見として、田中康夫『なんとなく、クリスタル』をマルクス『資本論』と結びつけた高橋源一郎の解説。2つの作品の距離感によって、新たな読書の開拓(例えば「なんクリ」の読者が『資本論』を読もうとか)を促す。高橋源一郎は、そういう解説が多い(読書の幅を広げっる)。

関連書籍:『日本の同時代小説 』斎藤美奈子



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