啄木(マイ)ブーム
『一握りの砂 』石川啄木(Kindle版)
プチ啄木ブームである(マイ・ブーム)。『一握の砂』は高校生の頃読んだがさっぱり良さがわからなかったな。何よりも文語であったこと、短歌というようり詩集だと思って読み始めたこと(間違いではないんが、もっとポエムを想像していた)。啄木について話し合える友達がいなかったこと。このどれか一つでもクリア出来ていたらもっと早い時期に短歌に興味を持ったかもしれない。そこから詩よりも小説に移行したのは悪いことでもないが。
啄木を読み始めたのは短歌を自分でも作り始めて過去の歌人としての啄木に興味を持ったからだ。文語と言っても今読むとそれほど難解ではない。当時は文語がまったくわからなかったのだ。なんだこの古い言葉という感じ。
啄木のうたよりも最初は啄木入門書を読んだほうが理解が早いと思う。今並行に読んでいるのが、小池光『石川啄木の百首』。その本によると『一握の砂』のオープニングを飾る
まあ高校時代に体育会系だった男子が部活を止めたからと言ってこれは恥ずかしくて読めないだろうな。もっとガツンとしたものが欲しかった。センチメンタル過ぎるのだ。
ただ解説によるとこのあとに、海辺の砂浜の歌が十首ぐらい続くのだ。その中にこんなうたもあった。
この歌は現代短歌の俵万智にも影響を与えている。
さらに流行歌では石原裕次郎が歌った『錆びたナイフ』も啄木からの影響だった。
砂連作十首は、砂のイメージがセンチメンタルなのだけど肯定されているような。砂は時間なのだと思うが、ネガティブの感情(涙)を吸い取ってくれるものなのか全体を読むと伝わってくる。その時間が物語性を帯びてくる。一つ一つは情景の絵なのだが、それをつなげると時間の流れのような映画になる。それが最後の「死ぬことをやめて帰り来たれり」で一人の「わたし」が去っていくのだ。「来たれり」だから「私性」の回帰ということかもしれない。砂粒のような存在だった「わたし」が再び蘇ってくる。
この連作はその時同時に出来たものでもなく、以前作った短歌を加えて啄木が再編集したものだった。まさに映画的に作られているのだ。そして、言葉(うた)=砂を啄木は確実にこの時つかんだのだ。それが「一握の砂」である。
この連作短歌は、行分けという近代詩の影響も受けている。短歌では一行書きなのを行分け詩にしたのだ。それがまたヒットの要因となったのだろう。読みやすさとわかりやすさ(当時の人にとっては)が不変的なのだと思う。だから今でも読みつがれている。易しいということは単純なのとは違う。
それはふるさとと都会生活の対比として、それを繋いでいく鉄道詩の多さに伺われると思う。定住する場所を求めていく移動の人だったのだ。そしてその先には海がある。砂の場所というのは、啄木のこころ休める場所だった。そんな儚さが啄木のうたにはある。
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