ともづな(家)に繋がれる欲望
『新源氏物語 霧ふかき宇治の恋(上)』田辺聖子 (新潮文庫)
大君がそこまで薫を拒絶するのは男には興味がないからなんだろうか?以前は父の遺言に縛られた不幸な姫君だと思っていたが理由は他にもありそうな気がする。大君の妹愛も一人善がりな感じがした。
薫は優柔不断な男すぎる。匂宮とセットなのかな。以前は対立する薫とライバル関係だと思っていたがそうでもなさそう。薫が優柔不断すぎるのだな。柏木の血筋だろうか?違う翻訳を読むたびに感想が変わっていく。それだけ原作も色々視点があるのだろう。
田辺聖子『新源氏物語』では家に縛られる者たちの物語で、匂宮が好意的に描かれているのは欲望に忠実だからだろうか?薫の欲望を押さえ付ける性格にいらいらするのは本心では欲望がありありなのに、それを下心ないように隠すからだろうか?そんな下心は中君に見透かされてしまう。
大君の薫への拒否感はそんな男性性に対してだったのかもしれない。八の宮が仏道を見極めた人として、薫が自身の出自の悩みから宇治の山奥で仏道を見極めようとするのだが、結局大君の存在があり出来なかった。欲望の発露として出自した存在である薫がそれを解脱しようとしても所詮無理だったのだ。それが薫自身から立ち上る匂いとして象徴させているのかもしれない。匂いは欲望の徴なのである。それを消せない限り大君は薫との関係を避けるのだろう。大君にも家による結婚観があり、それは妹の幸せという家父長制によって培われてきた幻想だった。
宇治ではそういう幻想が渦巻く場所である。かくれ里ではなかったのだ。うじうじ(宇治)欲望に苛まれる場所であった。薫は形代として大君の代わりに中君や浮舟を求めるようになるのは、隠し立てしたい欲望であった。そうした部分で匂宮とは同類なのだが、匂宮は隠し立てしないフリー・ラブ(セックス)だからむしろ田辺聖子が生きていた60年後半から70年的であるのかもしれない。
舟に繋ぐべくともづな(絆)がない浮舟は儚い存在ではあるのだが、映画『千年の恋 ひかる源氏物語』の松田聖子のように自我を押し通せるだろうか?