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「意味という病」を生きる文学

『意味という病 』柄谷 行人(講談社文芸文庫)

日本のシェークスピア論のパラダイムを批判し、明晰な論理と思考の下に、新しい「マクベス」像を描く、柄谷行人の初期秀抜エッセイ「マクベス論」をはじめ、秀作『マルクスその可能性の中心』につながる、その明視力の圧倒的展開を収録。

柄谷が描く『マクベス』はキリスト教以前の悲劇の「マクベス」。それは精神=自然である。ヘーゲル『精神現象学』では精神≠自然であるのはキリスト教的精神が入り組んでいるからなのか?そういうキリスト教以前の魔女(運命の預言者)の存在が信じられた時代の『マクベス』は自然そのものの男であり、放心状態であるから運命を受け入れるしかない。そして、マクベス夫人は他者として現れる。その内的葛藤が自然であり、精神の分裂状態なのだ。

逆説なんだが、結局意味を問うているということに尽きると思う。それは柄谷行人になくても読者はということで。

夢を見たのだが、柄谷行人『意味という病』がわかったと夢なのだが、最初の『マクベス論』だけはどうにかわかったような気がしたのだが、志賀直哉とか森鴎外とか苦手な文学者だから理解が遠い。それが夢でわかったと思ったら夢が醒めて、夢の話だったというオチだった。

そこからただ夢だとわかったら事後の後とか(木村敏「祭りの後」)だとか、なんか見えてきた。病の話はそういうことだった。神経症の時代。木村敏『時間と自己』では、精神の病を、祭りの前を分裂病(今は統合失調症))祭りの後を神経症(ヒステリー)、祭りの最中を癲癇として分類していた。

無意識的世界のわからなさの話は、精神分析でも解釈されるのだが、それは読者が求めてしまうことかもしれない。夢の不合理さを自然なことで精神=自然という捉え方はヘーゲルの精神≠自然とは真っ向対立する。ただ文明社会(キリスト教以後の)生きる我々は意味を問うのは自然なことで、だから批評が成り立つのではないのか?

あらかじめ予言されている不合理を「マクベス」は生きていかねばならなかった。それはキリスト教以前の悲劇であった。改定稿でまったく逆の結論を示したという。「悲劇」の超越だ。結局意味を求めるいるのだと思う。

森鴎外の歴史小説が虚構としての文学と成るためには歴史的事実を作者が改変することで、その本質を掴もうとする。それはまったくの自然の成り行きなのだが、それを自己ということで統治する文学ではなく、分散していく文学となるのは、大江健三郎の文学を連想した。

森鴎外の改定稿の話が重要なのは無意味なものとしてうち捨てられないものがあったからだろう。大江健三郎の「レイトワーク」にも「エラボレーション」というサイードの言葉から来た改稿の話が出てくる。最初は過剰な書き込みから削除する「エラボレーション」によって意味を後世に伝えていこうとする。

例えば夏目漱石『こころ』の「明治の精神」というものを新世代に伝えようと漱石は創作したと思うのだ。それを芥川がどう受け取ったかはいろいろあろうが。そう言えば芥川が尊敬するのは森鴎外と志賀直哉であった。

大江健三郎の歴史小説と自伝的自己中の文学は、森鴎外の系譜だろう。「事後のあと」というわからなさをわかったというふうに世界の中で意味づけていく。それが『同時代ゲーム』なのだが、虚構という神話=文学世界なのだ。

アラン・ロブ=グリエのヌーヴォ・ロマンの方向性は結局上手く行かなかったと思う。それは読者が意味を求めるからではないだろうか?

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