芥川賞(井戸川射子『この世の喜びよ』、佐藤厚志『荒地の家族』)を読む。
『文藝春秋 2023年 3 月号(三月特別号)』
第168回 芥川賞発表選評
『文藝春秋』芥川賞特別号。まっさきに読むのは選評なのだが、井戸川射子の評価が高った。
小川洋子が積極的に推しだった。読むポイントをゲーセンのおじさんから貰ったパウンドケーキを見事に均等に割る場面に言及している。主体(あなたという二人称)の二人の姉妹の娘がいる生活感覚が発揮されるのだ。現在と過去が溶け合うと表現している。
続いて平野啓一郎は、ヴァージニア・ウルフの意識の流れに触れて、ショッピングモールに来る人々のさりげない描写に多様な人物と人間関係を見る。ただ対立関係は微妙だという意見は、少女とあなたについて言っているのだろう。少女に寄り添いすぎという感じか?自己承認欲求だけを満たしているという。
島田雅彦は純文学の王道というべき作品だと。読みにくさがあるのだが慣れてくると引き込まれる感じ。
山田詠美は平野啓一郎と重なるのだが、喪服売り場のあなたの象徴性に言及して、喪が明けたからと言って喪の最中にいるものの気持ちに及んでいないと。少女の絶望についてだと思うが、あなたの受け止め方がいい先生的というか著者が教師だからその影響があるのかなと思う。不良少女は教師なんて信じちゃいないということだろう。今回は山田詠美がうるさ型の役。もうそのポジションかもしれない。
『荒地の家族』は保守的な純文学というところだろうか?実験的な作品がある場合、取り合わせでこういう作品が選ばれやすい。東日本大震災を描いている実体験風な三人称小説か?文体は中上健次のような感じだけど、途中で電信柱の描写とか宮沢賢治を想起させた。東北の話だからか?
川上弘美は胆力がある作品だとする。胆力ってなんだろう?文章力という感じか?吉田修一がべた褒めだな。運命的な不合理な自然の中で生活する人々を描いているから。植木屋の一人親方というのも良かったのだと思う。自然に携わる職業だし。自死する同級生を描いているのだった。歯車が狂ってしまった。
奥泉光はリアリズムがしっかり描写しているとする。松浦寿輝は、直球的な純文学という。堀江敏幸は不幸な大人を描いている一方に息子の笑いに希望を託す。家族小説だからな。
『この世の喜びよ』 井戸川射子
二人称の小説。ヌーボロマンとかの実験小説や日本だとわりと純文学作家によって用いられる手法。先日読んだ三島賞受賞作の三島賞岡田利規『ブロッコリー・レボルーション』も二人称小説だった。もはや珍しくはない。
井戸川射子は受賞インタビューで二人称にしたのは、主体となる人物の距離感で、子育ての苦労を未来からながめてみたかった(著者はいまが子育て真っ最中なので)ということであった。客観描写なのだが三人称よりも突き放した感じではなく、語り手が見守る視線なのだという試みは成功していると思う。
それは子育てを終えた「あなた」が今度はショッピングモールの人々を見守る視線を兼ねているからだ。その中に孤独な少女がいる。ショッピングモールで時間を潰す家に帰れない少女。その少女との何気ない会話から苦しかった二人の娘の子育て時代振り返る。
娘がショッピングモールの床に食べ物(飲み物か?)をこぼしてしまい咄嗟に床を娘のよだれかけで拭くのだが、よだれかけは汚れていて、余計に床に汚れが広がってしまう。それを足で何気なくやっている情景がなんとなく印象に残っている。そのときの母親の怒りというか、やるせなさの気持ちなど。そういう負の感情を遠くの記憶でしかない、今は二人の娘も成長していて祝福に満ちているのだ。それを分け与えているのが「あなた」という存在かもしれない。
ただ少女が素直すぎるのか。タメ口で「あなた」を完全に信用している人物のように描かれている。そこに教師=生徒関係のようなものを山田詠美は見出したのではないか?
少女の素直さが問題なのだと思うが、そのタメ口感が今どきの中学生を見ているようで面白かった。なんていうかシスターフッド的な作品だと思うのだ。娘たちの関係も親子というより姉妹的な。その裏にあるどろどろとした感情は出て来ない。というか母親目線だからか?
ただ作品としては祝福感という読書の楽しみに溢れた作品だとは思う。暗さがないのだ。ネガティブさがなくポジティブな作品。
『荒地の家族』佐藤厚志
東日本大震災で被災した人々を描いたリアリズム小説。『この世の喜びよ』が実験的な作品だとすれば、伝統的なリアリズム純文学で芥川賞同時受賞はバランスを取った感じか。
主人公が植木屋の一人親方で文体的には中上健次を想起する。中上健次が開発する土建業を描いたのに対して、こちらは木を植える仕事。庭木だけど「ハナミズキ」が象徴的に登場してくるのは、一青窈の歌からなのか?
イメージ的に近いような。海岸線に打倒された電信柱とあらたに開拓して建てられる電信柱が象徴しているのは造成地としての街並でそれは地震によって破壊された街の立て直しもあるのだが、そのことによって切り崩されていく自然をも象徴している。地震は自然災害と共に人災でもあったのだ。
そしてその傷を抱えながら生きる人々が描かれる。主人公は息子がいるが再婚相手に逃げられてストーカー行為のようなことをする。本人には別れる理由がわからない。他者としてよりも何でも知り尽くしている身内として見ているから、二人の関係性の齟齬に気が付かなった。また同じ場所で育った同級生の変わり果てた姿を目にする。彼もまた他者なのだ。他者のわからなさに付き合いながら理解しようとする主人公のもがきがテーマか?
息子がいるのだが、危険な遊びばかりして怪我をする。それでも楽しそうに同級生と会話している。そういう時代もあったと気づくのだろう。ただ同級生をこの街と共に見守るしかないんだという悟りのような文学だろうか?ラストの息子の笑いに救われる。
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