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愛の形からの信仰

『古井由吉翻訳集成: ムージル・リルケ篇』ロベルト・ムージル,ライナー・マリア・リルケ(訳)古井由吉

神秘主義、象徴主義の極北を、
論理と音韻が共振れする
日本語に移した圧倒的訳業!

ロベルト・ムージル「愛の完成」「静かなヴェロニカの誘惑」
ムージル著作集版を底本とし、世界文学全集版「解説」、岩波文庫版「訳者からの言葉」を併録。

ライナー・マリア・リルケ「ドゥイノの悲歌」
『詩への小路』で試みられた散文訳「ドゥイノ・エレギー訳文」全十歌を収録。
解説=築地正明

読者にはたいそう難解な作品を提供したようにおそれられる。しばらく、読みすすんでいただきたい。初めの一節二節をこらえて吟味していただきたい。まもなく、これがこれなりに明解な文章であることに気づかれることだろう。しかも明解さをしだいに解体していく、そのような質の明解さである、と。あるいは明解さをいきなりその正反対へ転ずる、と。その背後にはきわめて厳密な知性がある。そして厳密の知性と超越の感情、きりつめた把握と果てしもない伸長という、独特な結びつきがこれらの作品の基調となっている。そのことを読者はやがて感じとられるだろう。
(ロベルト・ムージル「愛の完成」「静かなヴェロニカの誘惑」/循環の緊張――岩波文庫版「訳者からの言葉」より)

誰が、私が叫んだとしてもその声を、天使たちの諸天から聞くだろうか。かりに天使の一人が私をその胸にいきなり抱き取ったとしたら、私はその超えた存在の力を受けて息絶えることになるだろう。美しきものは恐ろしきものの発端にほかならず、ここまではまだわれわれにも堪えられる。われわれが美しきものを称讃するのは、美がわれわれを、滅ぼしもせずに打ち棄ててかえりみぬ、その限りのことなのだ。あらゆる天使は恐ろしい。
(「ドゥイノ・エレギー訳文」より)
【目次】
ロベルト・ムージル
愛の完成
静かなヴェロニカの誘惑

訳者解説
「かのように」の試み――世界文学全集版「解説」
循環の緊張――岩波文庫版「訳者からの言葉」

ライナー・マリア・リルケ
ドゥイノ・エレギー訳文――『詩への小路』

解説
言葉の音律に耳を澄ます――翻訳と創作の関係について   築地正明

古井由吉が小説家になる前にドイツ文学者としてムジールを訳した影響は大きく、ムジールがそまでのトーマス・マンやブロッホのように確固たる文学を完成できなかったこと、それは『愛の完成』というムジールの三十一歳の小説は「愛の合一」ということを願う男の話だが、それは不倫関係による完成されない愛の形だった。

それは「愛」というものがキリスト教的な「愛」ではなく男女間の「愛」の欲望の問題にすぎず、古井由吉が『聖書』を口承文学と捉えているのが興味深い。それは文字としての『聖書』ではなく、それ以前に口承で伝えられたキリスト教(前キリスト教か?)があったという神秘主義に繋がるのである。

そのことがリルケの「ドゥイノ・エレギー訳文――『詩への小路』」に繋がっていくのだ。そこでの天使はキリスト教にとっては悪魔的な天使、つまり破壊する天使なのだった。

そういした翻訳から古井由吉の文学『杳子』から始まるじめじめとした湿り気を帯びた文体が形作られていく。つまり吉井由吉の文学の秘密の鍵がそこにあるように思う。

その一つが言葉の口承性ということだろうか。確固たる文字と刻まれた文学ではなく、あいまいな愛の言葉として、囁かれ誘惑していく。それは、『静かなヴェロニカの誘惑』を読むとより形が朧に見えてくるのではないだろうか?

岩波文庫で最初にこの小説を読んで一気にハマってしまった。金井美恵子とかそんな文体が好きな人向けだろうか。そう言えば金井美恵子にも『愛の完成』という作品があったような(『愛の生活』だった)。

ただこういう物語は男の独りよがりの妄想で運命の女的なファム・ファタールは男の勝手な性的妄想を愛と勘違いしたのかもしれなかった(妄想文学の一種か)。それについての批判とかは近年のフェミニズムでも指摘されていた。『男流文学論』

そこからリルケの「ドゥイノ・エレギー訳文――『詩への小路』」を読むのは面白いかもしれない。吉井由吉が訳しているのは韻文の詩を散文詩として訳しているので意味は捕まえやすいのかもしれない。

古井由吉のムジールの翻訳は、まだ小説家とデビューする前のドイツ文学の研究者の頃に翻訳したのを再度見直したものだとか。古井由吉のムジールの影響が伺える。ムジールは粘着質の文体でまさに古井由吉のドイツ版という気がする。愛欲が男女間で重なり合うのを目指しながら頓挫する。その記憶からの手記というような。次のリルケ『ドゥイノの悲歌』も凄い。もとは韻文詩なのだが、それを散文詩にしている。神の愛が人間の欲望の愛へと変わっていくのだが、それはムジールのテーマでもあるし、古井由吉のテーマでもあった。


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