ヒロミンの地獄の沙汰も祈り次第という道行き紀行
『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』 伊藤比呂美(講談社文庫)
最近、お経に興味があって、伊藤比呂美『いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経』を買いたいと思ったがまだ伊藤比呂美の積読本があったと思って読みました。
『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』は、伊藤比呂美のバイリンガル説経節でしょうか?
説経節というのは、もともとお坊さんが民衆にわかりやすく仏教説話をかたるのですが、そのなかでも日本に当てはめた事件や伝承を語る内に、お釈迦様のありがたい話より、事件の残酷性の方が面白くなって行ったというのがあるのです。語り手の素質ですかね。どう語れば民衆が聞き耳を立ててくれるか?朝礼で校長先生の訓示では、寄ってこない。そういう仏教説話の1ジャンルです。
だから、ここでも本質は仏教のありがたい菩薩や地蔵の救いにあるわけです。しかし、そこに至るまでの道行き(道のり)はヒロミン(親しみを込めてそう呼ばせて頂きます。しろみでは失礼だと思うので)の言霊が、お経やら日本の詩人やらのありがたい言葉をまとってヒロミンの近親者の生霊が憑依する語り物です。
夫は、アメリカ人。娘はバイリンガル。父母はボケ老人(もっと柔らかい言葉で言えば、痴呆症なのかな)。それらの人々に混じって友人の詩人とかたまたま道行きで出会った迷子のお婆さんとかの言霊が、普通の正しい日本語じゃないけど、行き交うのです。
例えば、夫と巣鴨のとげ抜き地蔵へ行った道行きでは、外人の夫の姿を見て騒ぎ出すジジババ(ババが多いのですが)が囁きだすのです。
「ほら、サンタさん、くすくすサンタさん。サンタさん、くすくす」
その言霊が繰り返され行間を埋めていくと、「サンタ」が「サタン」に空目してしまう。そこにヒロミンの地蔵菩薩が憑依して、普段妻を労らない夫を成敗するのです。
不信信者をこらしめてやれ、
ここはお地蔵様の参道である。
あまつさえ今日は縁日である。
サンタクロースが徘徊している。
不信信者をこらしめてやれ。
けっこう夫は悲惨な目にあって、悪い瘤取り爺さんになったり、散々な目に会いますが、それもヒロミンに成り代わって成敗する言霊なのです。
しかし、そういう成敗も「恐れ入谷の鬼子母神」というヒロミン鬼子母神も召喚される。娘の人生上の迷いに対して、喰うのではなく抱きしめる。それはヒロミンの母があまりにも鬼子母神だった裏返しなのかもしれないです。ここは、しんみりくるのは何故なんだろう?やっぱ言霊なんでしょうね。
言霊といえば繰り返し木霊する言葉が、リズムをまとって舞うのは詩人ならではの「言葉使い師」です。神林長平にそのようなSFがありましたけど、まさに言霊のバトル的面白さがあります。そこには過去に閉じ込められたヒロミンの怨念と海外生活の修行時代で培った「言葉使い師」であるようです。
「とげ」という言葉のささくれは、根源的なラジカリズムを引き出しています。例えばヴェイユ『根をもつこと』とかに近いんだと思う。読んでないけど。韓国の「恨」というような。