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『テンペスト』の登場人物(デーモン)は反抗する。

『 テンペスト 獄中シェイクスピア劇団』マーガレット・アトウッド, 鴻巣 友季子 (著) (語りなおしシェイクスピア テンペスト)

世界のベストセラー作家が、シェイクスピアの名作を語りなおすシリーズ第一弾。
M・アトウッドによって、傑作『テンペスト』が現代に蘇る!

『テンペスト』の演出に心血を注いでいた舞台芸術監督フェリックスは、ある日突然、部下トニーの裏切りにより職を奪われた。失意のどん底で復讐を誓った彼は、刑務所の更生プログラムの講師となり、服役中の個性的なメンバーに、シェイクスピア劇を指導することに。
12年後、ついに好機が到来する。大臣にまで出世したトニーら一行が、視察に来るというのだ。披露する演目はもちろん『テンペスト』。フェリックスの復讐劇の行方は!? ――天才シェイクスピアと現代文学界の魔女アトウッドの才気が迸る、奇跡のような物語の誕生!

以前映画で同じようなものがあった。

映画『ウエスト・サイド・ストーリー』を観るまでの時間潰しで読んでいたのだが、「換骨奪胎」というならこのぐらいの改変はしてもらいたかった。これはただの焼き直しではない。リメイク作品ならば原作を読めばいいのだ。

映画『ウエスト・サイド・ストーリー』を面白かったと言えないのは従来のミュージカルを超えるものではない。ダンスやセットや衣装が凄いと言っても、それは従来のハリウッド映画ならどんどんスケールアップされ更新されるだろう。そうではないのだ。ミュージカルを批評するミュージカル映画が必要なのだ。例えばカラックスの新作は、そんな予感をさせる。

シェイクスピア劇が劇中劇があるということを踏まえながらのメタフィクションで、現実が劇をトレースさせる。つまりメタフィクションと言いたいのだが、それがシェイクスピア劇の批評にもなっている。それはプロスペロー娘のミランダをただの付属物としないで、独自に外れていくストーリーに展開させているからだ。

妖精のエアリエルを現代的に解釈してエイリアンに仕立てたこと。そして、チーム・エアリエルという演劇が一人の役者ではなく、音響も衣装もすべてを総合して成り立つものであるという演劇論(演出論)も含んでいると思う。ここまで書くと理屈っぽいと思うかもしれないが、囚人の矯正プログラム演劇を逆手に取って、矯正を反逆プログラムにしたところに面白さがある。

それはシェイクスピアの復讐劇の面白さでもあるのだが、喜劇というのがどツボ。会話が面白い。喜劇は、脚本がしかっりしてないと駄目なんだというのはその通りなんだろう。喜劇が脚本賞に選ばれないというアカデミー賞の欠点を町山智浩さんが言っていたな。

最初の演出家フェリックスの状況説明部の第一部はそれほど面白くはないのだ。話のプロットの組み立てにすぎないからだろう。物語が動き始めるのは、囚人たちと『テンペスト』を演じることになってからの演劇風景。

『ドライブ・マイ・カー』でも演劇稽古風景が実際のドラマとオーバーラップしてくる。そこがこの映画の面白いのだ。チェーホフの演劇と共に演劇論でもあり演出論の映画でもある。構造的には似ている。ただそれが囚人劇なのだ。

「テンペスト(あらし)」という題名も人為的な人間の思考よりは、自然の感情なのだ。そこに演出家を専制君主とする従来のシェイクスピア劇ではなく、反乱する自然=デーモン(精霊)と見るならば、極めて現代的な解釈をしているのだ。デーモンは囚人たちであり、役者たちであり、キャラクター(登場人物)なのだ。

フェリックスの復讐劇『テンペスト』が終わり、それぞれのキャラを演じた者が登場人物の批評を行う。そこが味噌だった。シェイクスピア劇の男尊女卑時代の演劇を現代劇に解釈する。それは娘のミランダが単にオヤジの付属物ではなく、独立した存在だと際立たせることなのだ。そして、妖精たちも主人に仕える従僕ではなく反抗する囚人たちなのだ。





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