言霊信仰=文学というグノーシス
『犠牲の森で: 大江健三郎の死生観』菊間晴子
図書館本なのでそろそろまとめて返却しないと。犠牲というのは大江健三郎が時代の犠牲となったものを作品に取り上げながら(動物の犠牲というメタファー)生きた戦後世代の学生運動とか三島由紀夫の自決とかそういう歴史を動物をメタファーとして、ナショナリズムの中心の物語には回収されない辺境の物語として四国の森の鎮魂としての物語が描かれたのだと思う。
それは大きな物語に回収されてはならない個人的体験であり、そして「晩年の仕事」での文学の読み直し語り直し繋がっていくのだ。工藤庸子『大江健三郎と「晩年の仕事」』、尾崎真理子『大江健三郎の「義」』の中間ぐらいの批評かな。
大江健三郎の批評本としては、工藤庸子『大江健三郎と「晩年の仕事」』、尾崎真理子『大江健三郎の「義」』の中間ぐらいの批評。工藤庸子は純然たる文学論で、尾崎真理子は現代思想(右よりに感じる)という感じだが、尾崎真理子は宗教に入れ込みすぎるような気がするが、菊間晴子は大江健三郎が無神論者であることを明確にしている。そこから新プラトン主義というような、思想を引き出していた。グノーシス的なエリアーデの本が参考になるのかな?
「犠牲の森」というのは大江健三郎の小説の舞台になっている四国の森(村=国家=小宇宙)という構図を彼が生まれ育った大瀬村を取材して、大江健三郎の背景にあるものを読み取ろうとする批評。そこから樹木信仰みたいなものを導きだしていく。カバラの「生命の樹」だ。そこはエヴァンゲリオンだった。世紀末の終末思想かな(そこにオウム真理教との繋がりを感じてしまう『燃え上がる緑の木』だった)。
大江健三郎は、祈りの森(四国)で鎮魂をしたのだということだと思う。その中で全学連運動で死んだ者や三島由紀夫がいるのだが、そういう敗者として残った者として、生まれ変わりの物語を書かねばならなかった。
その物語は大きな物語(ナショナリズム)に回収されてはならない個人的な体験であるべきなのだ。その中で無神論である大江が神というものを見出していくには言葉しかなかった。それがグノーシス的な幻影(希望=絶望)としての物語だみたいなことだと思うが、一つの言霊信仰になっているのかもしれない。言霊信仰=文学ということだ。それが中心に依存しない辺境の四国の森の物語と重なっていく。
参考図書
工藤庸子『大江健三郎と「晩年の仕事」』
『大江健三郎の「義」』尾崎真理子
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