美の概念もいろいろ、人生いろいろ
『人はなぜ「美しい」がわかるのか 』橋本治(ちくま新書)
逆説的であるのかもしれない。「わかる」というのは他者と分かち合うということで、美という時間が止まった状態では他者と分かち合うことが出来ない。合理性という美は結果でしか無く、例えば野茂英雄のサブマリンが美しかったと言えばそこに勝利という結果をともなったからとも言える(サブマリンじゃなかった。トルネードだった)。合理的な投球フォームではないとコーチに去勢されなかった。それはイチローにも言えた。彼の悪球打ちは合理的ではないが、プロ野球という結果の世界で美しいとも言えるし、逆にせこいとも言われる。
ギリシア彫刻の黄金律も静止した状態であるので、生命感は感じられない。生命あるものは変化していくものなのである。そこに時間が生まれる。
孤独が近代になってからの発見という日本に自我という個人主義が入ってきたからだろうか?そういえば孤独の時に美を感じてしまうのは、それは他者とは共有にしにくいものだと感じることなのかもしれない。他者の批評は美を壊すものなのだ。だから死の状態が美だと思う時は、そこに時間的なものはなく刹那という意識に近いのかもしれない。他者との共有していく時間は変化していくものであり、そこに美を見いだしにくい。美は変化よりもとどまっているものであるから。
ただ追憶の記憶の中で美の残像を感じるのかもしれない(最近はいつもだが)。夕焼けのように。それはセンチメンタリズムの美だと思うことはある。
橋本治の美意識と違うのは、清少納言『枕草子』よりも吉田兼好『徒然草』に美を感じるかもしれないと思った。それは私が初老のオヤジだからだろうか?いや、読んだことはないのだが。鴨長明『方丈記』には美意識を感じてしまうのだった。
島倉千代子「人生いろいろ」を聴きたくなった。