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美の概念もいろいろ、人生いろいろ

『人はなぜ「美しい」がわかるのか 』橋本治(ちくま新書)

はなぜ、「美しい」ということがわかるのだろうか?自然を見て、人の立ち居振舞いを見て、それをなぜ「美しい」と感じるのだろうか?脳科学、発達心理学、美術史学など各種の学問的アプローチはさまざまに試みられるであろう。だが、もっと単純に、人として生きる生活レベルから「審美学」に斬り込むことはできないだろうか?源氏物語はじめ多くの日本の古典文学に、また日本美術に造詣の深い、活字の鉄人による「美」をめぐる人生論。
目次
第1章 「美しい」が分かる人、分からない人(「美しい」が分からない人;「美しい=合理的」という発見 ほか)
第2章 なにが「美しい」か(なぜ私の話は分かりにくいか;「カッコいい」の意味するところ ほか)
第3章 背景としての物語(嵐の雲を「美しい」と思った時;台風を「美しい」と思ってしまう人間の立つポジション ほか)
第4章 それを実感させる力(不思議な体験;だったら人生はつまらないじゃないか ほか)

逆説的であるのかもしれない。「わかる」というのは他者と分かち合うということで、美という時間が止まった状態では他者と分かち合うことが出来ない。合理性という美は結果でしか無く、例えば野茂英雄のサブマリンが美しかったと言えばそこに勝利という結果をともなったからとも言える(サブマリンじゃなかった。トルネードだった)。合理的な投球フォームではないとコーチに去勢されなかった。それはイチローにも言えた。彼の悪球打ちは合理的ではないが、プロ野球という結果の世界で美しいとも言えるし、逆にせこいとも言われる。

ギリシア彫刻の黄金律も静止した状態であるので、生命感は感じられない。生命あるものは変化していくものなのである。そこに時間が生まれる。

孤独が近代になってからの発見という日本に自我という個人主義が入ってきたからだろうか?そういえば孤独の時に美を感じてしまうのは、それは他者とは共有にしにくいものだと感じることなのかもしれない。他者の批評は美を壊すものなのだ。だから死の状態が美だと思う時は、そこに時間的なものはなく刹那という意識に近いのかもしれない。他者との共有していく時間は変化していくものであり、そこに美を見いだしにくい。美は変化よりもとどまっているものであるから。

ただ追憶の記憶の中で美の残像を感じるのかもしれない(最近はいつもだが)。夕焼けのように。それはセンチメンタリズムの美だと思うことはある。

橋本治の美意識と違うのは、清少納言『枕草子』よりも吉田兼好『徒然草』に美を感じるかもしれないと思った。それは私が初老のオヤジだからだろうか?いや、読んだことはないのだが。鴨長明『方丈記』には美意識を感じてしまうのだった。

島倉千代子「人生いろいろ」を聴きたくなった。



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