自歌合(じかあわせ)を勉強する。
『短歌研究2024.1月号』
第1部 特別対談「『歌論』の真髄
『短歌研究 2024年1月号』から「第1部 特別対談「『歌論』の真髄。よい歌とはなにか」馬場あき子×吉川宏志では、西行の『御裳濯河歌合』と『宮川歌合』という自歌合(じかあわせ)を知った時は、よく判らなかったのは、普通歌合というと右左二手に分かれて、テーマにそって歌人たちが詠み合うのだが、西行の自歌合というのは、西行の歌を右左に分けて、その判を『御裳濯河歌合』なら藤原俊成に、『宮川歌合』はその息子である藤原定家に判を仰ぐのだが、それはその歌を神社に奉納する為の祈願(歌が上手くなりたい?なのか、その目的はわからない)なのである。
そこに西行の同時代である藤原俊成や一世代下の藤原定家の歌論が伺えるということなのだ。その中から馬場あき子と吉川宏志が選択して解説したもの。中世の変動期の和歌の俊成や定家の歌論が西行の歌を通してわかるというもの。
『御裳濯河歌合』七番
左の西行の最も有名な歌でも西行が生きていた頃だから、そんな予言をするのも何様なんだということで、持(引き分け)になったらしい。その後に西行が釈迦の入滅日の一日後に亡くなったので伝説化された歌なのだ。塚本邦雄もこの歌は否定したのだ。
三番
俊成は右は「今夜一夜」は言い過ぎで他の秋はどうなる?ということだが、これは西行の恋の歌だから、そう詠むことで一夜の尊さを詠んだとのこと。
十八番
右は今では名歌とされるが俊成は「心なき身」が気にいらなかった。それは西行が僧侶であるから仏教的な解脱を歌っているのだが、俊成にしてみればそんな野暮なこととなる。ただ下句はべた褒めで「幽玄」とされる情景なのである。
左は涙が露となってこの宇宙に満ち溢れる情況を心が深いと評価するのだった。あっさり歌っているのだが、奥(世界観)が深いと。右の方がいいけどな。俊成は情緒を重んじる歌人だった。
二十八番
左は『百人一首』に載る西行の歌だが、なんでこんな歌が代表歌なんだと酷評される定家の無能ぶりを言われる歌。ただこれは失恋の極地の歌なんだと馬場あきこの評。月に向かって失恋を嘆いている。
俊成は歌があるから人は美を感じるという「はじめに言葉ありき」の人だった。日本人は『万葉集』によって四季から美を感じていたという。
定家はまだ26歳ぐらいで、父と同世代の大歌人である西行(当時70歳過ぎ)から判を仰がれるのだから、そうとうびびったという。
『宮川歌合』
十番
左の方がオーソドックスで右は区切れも多く自由奔放というのだが、よくわからん。「何となく」という気持ちを大事にする。理屈ではなく感性ということか?これが一番苦手かもしれない。
第2部 現代歌人「ペア自歌合」
自歌合特集だった。これは面白いかもしれない。でも歌合をやればいいのにと思ってしまう。自歌合は内輪的に感じてしまう。当たり障りのない批評で。
左は、馬場あき子さんぐらいの年齢の方なら豆腐には籠ではなく鍋とかボールとか水ごと持っていく豆腐屋で買う豆腐を連想したかったなと思うのである。籠だと水ごとではなくスーパーのパックに入った豆腐だろう。鍋に水と一緒に入れてもらって「しづまり」になるイメージ。そしてその鍋で湯豆腐とかでいっぱいやると怨むこともなくなるのだろうか?
右の方は「なし」のリフレインが出し尽くしたことでさわやかになる人がいるのかな。言われた方はさわやかでもないと思うが。そう言わせておけという心持ちが爽やかな人なのかもしれない。よって左の勝。右勝になっているのは吉川宏志の判定。
ちょっと関係ない話をするのだが、歌合は、左右が逆なのはなぜ?左、右って実際は右側に左とあって、逆に左側が右になっているのはなんでだろう。前から気になっていたのだが、答えがわからない。まあ、自分も本当は上下なのに左右と書いているので突っ込まないようにしていたが。
左は要はセックスしたいと言っているのだろう。こんな句は取れない!右の方が彼岸に誘われているようで不気味な感じがいい。よって右の勝。
「高千穂」がわからなかった。
左は「高千穂」をそのまま歌っているようだ。いわゆる無難な歌かな。右は「闇」が引っかかる。天照大神が岩戸に隠れたのも闇だし、そういう闇が存在する世というのを歌ったのがいいかな。栗木京子の批評は「見飽かざる」と重ねていることに、闇に魅了されている作者を読み取っている。
左「試し刷り」が何か年賀状みたいなものかと思ったら青空の比喩だった。これは素晴らしいと思う。右は「面罵」がよくわからなかったがネット検索して「面罵」されているように感じたから左の勝。持は引き分けなんだが、これだけ違う歌に引き分けはないと思うが作者に気を使ったのか?判者はAIの句を取りたかったような。「青空よ」という呼びかけとAIの小ささの対比が良いという。栗木京子的には自然を歌った方が良かったような。
テレビでも時事ではなくドキュメンタリー番組か。たぶん彼は癒やしを求めていたと思うから左の勝だな。右は疲れるから寝るという感じだろうか?
左はどうでもいい歌だな。勝手に寝てろという感じ。右も秋の隣は冬なのにまだ冬が来ない温暖化なのか?夕焼けがきれいというのは隣の電車に反射しているのだろうか?いや。夕焼けと電車の光景なんだろうな。絵的に右が勝。小池光は隣の電車に乗っている女の子が綺麗だと読んでいる。女の子を夕べに喩えたのか?なんかあったみたいじゃないか?デートの別れなのかもしれないな。その読みはいろいろ空想が広がり面白い。
口語の旧送り仮名は面倒だな。口語だったら新送り仮名がいいと思った。勝敗には関係ないが。右の方が不思議な感じがするかな。右の勝。平井弘は定形を崩すことをやっているとか。右は句跨りだが、まだ定形を保っているということで、左の方が八六八九の三十一文字でリズムが独特だという。それなら仮名も新仮名にすればいいのと思ってしまう。
これもリズムを崩しているのかな。ほとんど定形だった。ただ左の「狂うって」の導入部が面白い感じがする。竜頭に合っている。判者は右の方が歌としてまとまっているが左の破調が勢いがあるということだった。
定形を疑うこともなく定形に則った模範短歌のような歌だった。左はリフレインの心地よさが呪文のように、右は対句的にこれが正しい短詩の形だと言わんばかりだ。「聖かたつむり」という言い方が好かない。まだ眠くなる呪文の方がいいだろうと勝は左。
左は「粉薬」はロシアが風邪(戦争)を引いたらの喩えかな。「四捨五入したら」らというのがもうロシアみたいな言い方だな。右は(コート)はオーバーより薄い記事だと読んだことがあり、ここは(オーバー)だろうなと。やを付けた切れは生きているのか?一字空けと重なるので不要な気もする。よって左の勝とするが。穴がありすぎるような。
左は白い水仙と黄色い水仙があり白い水仙を選んだわたしという清純さアピールみたいなものか?右は縊死がナルシスの水仙をイメージしているのだろうがやっぱ水死のほうが合っているような気がする。縊死のおどろおどろしさもあるが、さわやかな左の方が川野里子のイメージかな。よって左が勝。大森静佳の批評は右は水仙の花の傾きが縊死している写生なのだと、そうなると川野里子に自殺願望があるのだろうか?「向かふ側」も異界と読む鋭い指摘だった。大森静佳は出来る人だな。
左はどういうことだ?窓から見た赤富士だと思うのだが「揉むごとく」がよくわからない。右は「こども」のリフレインが見事だな。初句の「ほっぺたが」の言い方もいい。網戸のように畳の跡を付けて寝ている様子がイメージ出来る。そこだけ特別な空間を作っている母の視線。右が勝だろうな。「丹頂」は鶴だった。動物園だったのか?「まなざいに揉む」も先行の短歌をイメージしているという。大森静佳は出来すぎだな。なかなか読みきれないところがある。
左は蟻の生態を「言葉以前の」という本能が「闇深き」を求めるイメージか?右はファンタジー短歌で「茸」がそれをイメージする。スマホ世代の明るさかな。深いのは左のような気もするので、左の勝。判者の千種創一は結句の韻律が「かたわらに置く」は固すぎで、左の「闇深きかな」は勢いがあるとする。これもなかなかの読みだった。
ひだりは散文的な短歌だけど対句が効いているのか。右は積もらないのが「鬱」になっていく「あなたの声」というのは分かるな。右の勝か?右は初句と二句の句跨りでもあったのか。そこまで読めなかった。ただこの句跨りは平凡だな。「ゆきのつも らないかわもを」あまり効果的じゃないような。
言葉を・で並べて、戦争アニメのように語るストーリーと、その物語の帰還兵みたいなフィクション。右の方がいいかな。平岡直子は苦手なタイプ。うすかすかの箱はAmazonなのか?面白いな。
もしかして左に上げる短歌のほうが作者の自信作なのか?右は実験的な感じがする。猛毒の友は批評家の友ということか?面白い短歌だと思う。左はいかにも短歌だな。完成度は高いが、実験的な右の勝。平岡直子の批評は結構的確のような。左は短歌に読み慣れた者の秀歌なんだよな。右は塚本邦雄崩れの悪あがきとする。なるほど。