名作が読まれ続けるのは現在の問題を浮かび上がせるから
『世界の名作を読む 海外文学講義 』工藤庸子(角川ソフィア文庫)
工藤庸子の文学講義。放送大学の講義だからけっこうそれぞれの文学に詳しく述べられている。『ドン・キホーテ』から始まるのが嬉しい。全体的にモダンな作品を扱いながらポスト・モダンな読みかな。
『ドン・キホーテ』がそのような文学だし、過去の騎士道物語を模倣しながら、自己批評していくとスタイルだ。
シャルル・ペローとグリム兄弟の昔話は、「赤ずきんちゃん」はペローでは狼に喰われておしまい。その後に貴婦人は見知らぬ男を招き入れないという教訓話になっていく。ペローの時代はブルジョアジーの時代だった。グリムになるとそこからひねった話になるのだが兄は学者肌タイプ、弟が創作タイプというような。
つづてシンデレラになるとグリムではガラスの靴に合わせて姉たちの足を切ってしまうとか残酷なシーンも。最後も目を鳥に突かれて失明してしまうという展開。そういえば倉橋由美子『大人のための残酷なグリム童話』という本もあった。
フローベール 『ボヴァリー夫人』は今までのキリスト教的道徳を個人的な愛で乗り越えるという話ではなく、退屈な夫に復讐する話だという。そうだったかな?もう一度読んでみたくなる。続いてフローベルのキッチュな『純な心』とか引用が素晴らしくまた読みたくなるのだった。この講義は引用が多めなのも嬉しい。
カフカ『変身』は、虫の姿は読者に想像させることで表紙にザムザの虫になった姿とか出さなかったとか。それが正しいと思う。ナボコフの『文学講義』ではザムザの姿を絵入りで載せていたが、それでナボコフはいまいち信用していないのだった。ただこの講座はナボコフの文学講義から影響をうけていると思われる。
カフカ『断食芸人』は作品とカフカ自身を重ねて涙が出そうになるエピソードも。
そして『失われた時を求めて』の有名な紅茶のエピソード解釈。
フェミニズム関係では『ジェイン・エア』をヴァージニア・ウルフにつなげて解釈する。工藤庸子の文学論は「開かれた文学」なのだ。一つの作品がそこで閉じるのではなく次の読書に繋がる。そんな文学の楽しみ。
最後のカルヴィーノは引用(電子書籍だけそうみたい)が出来なかったが、カルヴィーノの初期はリアリズム文学なのだ。厳密に言うとネオ・リアリズムとなるのだが、ペローやグリムの童話を紹介しているように、そういう童話や寓話に入り込んでしまう少年時や青年時の話。
カルヴィーノの文学はそうした寓話が現在に通じるというようなものだった。メタフィクションというジャンルになっていく。
ペローやグリムの童話が子供のためにあるのではなく、リアルな残虐性を帯びているのはその社会を描いているから(ペローの「あかずきんちゃん」は狼に喰われておしまい、そのあと説教のような教訓になると言う)。だから原作は今でもけっこう読める(現実世界を感じることが出来る寓話なのだ)。過去の文学が古びない今でも読まれ続ける理由だ。