たまには虚子の本でも読んでみよう
『鑑賞現代俳句全集〈第1巻〉俳句の出発』
子規、碧梧桐、虚子と続いて「明治大正俳句史」「昭和俳句史」と俳句史に寄り添った形で俳句観賞をする。碧梧桐は本が少ないので興味を持った。解説は加藤郁乎。碧梧桐は旅する俳人で芭蕉の俳諧を継いでいる感じだ。子規や虚子が芭蕉より蕪村を評価したのは写生句としての方法論なのだ。しかし虚子よりも碧梧桐の方が写生句には拘っていたようである。虚子は理論よりも人を引き付ける力があったのだろう。「ホトトギス」なくして虚子はない。芭蕉に否定的だった虚子も晩年には芭蕉理解を示す。それは物の世界の中に心を詠むイメージの句。
「明治大正俳句史」が面白い。俳諧師は明治政府によって、皇国思想を教化する教師として利用される。もともと反権力的な俳諧師たちだが、生活のために様々なことをしたのが伺われる。それは金を取っての俳諧評価であり、中には景品を出すものがいた。やがて教化的な宗匠とそれとは別の宗匠の二派にわかれるのだが、子規は教化的な性格だったが、保守的な宗匠とは相いれずに新俳句を起こす。それが子規と尾崎紅葉なのだが、教化的な子規俳句が明治俳壇をリードしていく。そして子規と紅葉を失うと虚子の「ホトトギス」の時代になっていく。
正岡子規
9/19日は糸瓜忌だった。松山まで墓参りも出来ないので俳句を作るぐらいか?俳人の忌日は多くて、毎月のようにあるがやはり好きな俳人の忌日は俳句を詠んだりするのだろうか?先日、泉鏡花の墓仕舞いのニュースがあったので、それで詠んだぐらいだった。
「糸瓜忌」は子規が臨終時に絶筆三句の糸瓜の句を詠んだことから来ている。ただ実際にはそれ以前に作っていたという説もあった。
大江健三郎『子規はわれらの同時代人』では子規の絶筆三句の構造体を明らかにしているという。それは生活者であり改革者であった表現者としての生き様ということだろうか?芭蕉の辞世の句が芭蕉の俳諧人生を語っているように語っているのかもしれない。
正岡子規は、『病床六尺』『仰臥漫録』『墨汁一滴』で子規の俳句だけではなく俳文としての才能を感じ取ることが出来る(写生としてのスケッチも)。「仰臥漫録」では中江兆民『一年有半 』を批判しているのだが、自身も同じような手記を書いているところに子規の負けず嫌いの性格が伺える。『病床六尺』、明治三十五年五月から127 句が掲載され9月に亡くなる。
明治三十四年に四月に『墨汁一滴』九月に『仰臥漫録』の連載を始める。藤の歌十首で有名な藤の歌。
あぎとは魚のえらの意味で漢字が出てこない。この句は病床の子規を見舞って伊藤左千夫が鯉を盥に入れたのを十句詠んだという。一つの題材で十句作るというのは子規が始めたのか?
流産二句と前置き。碧梧桐の手記によると子規の秘め事として書かれているという。
著者(久保田正文)が一番いいという句。しかし、虚子は取らなかったという。労働者の生活句で社会詠的だったからか?
芭蕉忌は7句作っているが否定的なものが多い。
子規のベースボールを詠んだ句として有名。
「糞の句」というエッセイもある子規は、芭蕉に並びこういう句も作っていた。
名月の句十四句のひとつ。ただ著者は名月の句に佳句は一つもないと断言する。
鶏頭論を引き起こした問題の句。虚子は取らなかった。
現在ではタブーとされる句。しかし、子規は穢多村好きと噂されるほどこの手の句が多いという。子規の小説『曼珠沙華』からも差別意識について批判的な意図で書かれているという。
河東碧梧桐
『観賞現代俳句』から加藤郁乎「河東碧梧桐」。俳句よりも短詩として、俳句は滅びても詩は滅びないとまで言ったとか。新興俳句の傾向があった俳人かも。今はけっこう無視されがち。「無中心論」は、無意識的なシュールレアリスムのような感覚か?自由なる俳諧を求めた俳人である。子規が碧梧桐を称した句に自然の中に自由な旅をする彼の姿があるという。
木槿は一日花とも言われその日その日の花咲くように書き残す俳句に対する姿勢か?碧梧桐は旅の俳人で宿帳には書生と書いていた。それは権威にならないことで俳句は売るものではなく先生と呼ばれるのを拒んだという。『三千里』には西行・芭蕉の遍歴を継ぐ意志の表明がある。
その中で「新俳句」という新傾向の新しい俳句を絶えず求めていた。
糸瓜忌の句。糸瓜仏が糸瓜を仏に見立てた「莞爾」は難解だが仏の微笑みというような意味だろうか?
その子規が認めた碧梧桐の俳句8句の一つ。この句が碧梧桐の代表作のように思う。実際に赤い椿と白い椿が同じ場所で同時に落ちることはあるのだろうか?そんなリアリティを考えるとこの句はイメージの句のように思える。イメージの句であるからより華やかに絵になっているのだ。碧梧桐の「無中心性」を表した句で視点が二つに分散されるが、どっちが主ということはない。
『源氏物語』の帖の題名にもなっている『帚木』が人の移り気やすさの喩えだという。それを皆伐採して芙蓉を咲かせるのだ。
高濱虚子
詞書に「松本たかし死す(五月十日)」とある。俳句だけではよくわからないな。詞書があってもそれほどよくわからんが松本たかしが俳諧史では重要で牡丹の如き人だったのか?この例題はそういう説明ではなく、「花鳥諷詠」の誤解について。
「花鳥諷詠」は「花鳥風月」の季節の移り変わりを詠むことで自然現象だけではなく人事でもありうる。なんかな虚子の言動は「ホトトギス」内で歪めれて伝えらたという。それを反虚子論者の読解不足というのはちょっと言い過ぎのような。「花鳥諷詠」の意味をしらべてみい。
自然の花と同等の虚子の人生は、東洋のスピノザ主義という。また大きく出たな。要するに自然を愛したということだ。
「巨木」にしたほうがいいな。宇宙の直観があるという。
この辺になると写生句というよりも概念の句だよな。
虚子は子規の芭蕉観を受け継いで芭蕉には否定的な考えで、この句は主観的であるから芭蕉ぐらいの巨匠ならいざ知らずお前ら凡人は真似をするべからず(脚色が入ってます)と言って戦略的に写生句を重要視した。ただ純粋なる写生句が物との間に距離を取って俯瞰するならば、その中に自己という中心があるに決まっているのだ。写生が時間的生成を捉えたものではなく一瞬の静止というカメラアイによる視点は芭蕉のような時間的な俳句は捉えにくい。これが主観的に思ってしまうのが虚子の欠点だろう(晩年は概念句も作ったが)。まずさまざまな事という時間が存在するのだ。それは去年見た桜かもしれないし、十年前かもしれない。例えば入学式(芭蕉の時代にはなかったと思うが)で撮った一枚の写真。それは六十の桜と同じだろうか?あるいは桜というものが死の想念と重なってくる場合がある。それを故人と見た桜かもしれない。そのときどきの時間的変化の中で人としての生成がある。たぶん、桜にも生成があり、伐採された桜を見てこの句をイメージの中で詠むこともあるのだ。それは主観であるのか?時間というものは他者との関係でなりたっているのは、ちょっとした時間論を読めばわかるだろう。つまりここでは桜との関係で時間による生成変化があるのだ。
それに気が付くのが晩年になってからとか、ちょっと遅すぎないか?直観なんていいだすのも概念としての存在論なのだろうか(西田幾多郎とか)。
そのことによって花鳥諷詠の時間論が詠まれたのが芭蕉の句ということか。
「明治大正俳句史」
明治になって、江戸俳諧師の立場は弱くなり、宗匠(俳諧の師匠)は添削を有料にして指導したり、景品を出したりしてしのいだ。芭蕉のような俳人は希少だった(全国に弟子がいるようなもんだから)。宗匠(俳句の師匠)の番付があったりして、それが西鶴の矢数俳諧(一日で千句作るとか)とか出てきたようだ。俳諧師は新興宗教の教祖みたいな存在だったようだ。まあ、この時代に俳諧が月並み俳句となっていくのは理解できないことではない。さらに当時俳諧師は僧侶なども多く、明治政府が正しい生活みたいな御触れを出して、教育の一貫とした。皇国教化のために僧侶が多い俳諧師が利用されたという。しかし俳諧師でもともと反権力で立場が保てない人や教育的なものではない人も多くいたという。それが明治の俳壇の流れだったのである。
ただ教化的な宗匠は保守的な思考の持ち主が多く、それに不満を持つ正岡子規らの新俳句が勢力を伸ばしていく。新俳句側から月並み俳句の烙印を押された宗匠にも佳句はあるという。
月並み俳句
庶民に人気があったのは月並み俳句のほうであるのだが(俳諧味がある)、そしてそのような俳句本が隆盛を極めて、正岡子規の新俳句と対立していくのだった。
やがて教化的な宗匠とそれとは別の宗匠の二派にわかれるのだが、子規は教化的な性格だったが、保守的な宗匠とは相いれずに新俳句を起こす。それが子規と尾崎紅葉なのだが、教化的な子規俳句が明治俳壇をリードしていく(子規は旧家の伝統俳句を学んでそこに写生という改革運動を起こしていく。もともとは国家主義的な人)。そして子規と紅葉を失うと虚子の「ホトトギス」の時代になって行った。
「ほととぎす」の雑詠欄に集まった俳人は多彩極めて彼らが中心となっていく。
「昭和俳句史」
「昭和俳句」は川名大なので今回はパス。