吉本「西行論」は親鸞になりえたのか?
『西行論 』吉本隆明(文芸文芸文庫)
1 僧形論
西行の説話集『撰集抄』は今日では贋作とされているのだが、その西行像に影響を受けた芭蕉や後世の作家は「西行」その人よりも「西行」の思想に触れて影響を受けたのであり、その西行の思想的なものを表現しているのが『撰集抄』であり鴨長明『発心集』であるという視点から西行の思想を読んでいく。
その中で西行の歌は重要なのだが贋作も多いという。それは一つの歌だけで解釈すると幾通りにもストーリーを組み立てることが出来、それが『伊勢物語』などの歌物語だという。その物語部分に虚構性が含まれるのだが、それらは歌の解釈によって拡張された物語であるという。だから歌を単独で読む場合と繋がりで読む場合は意味が限定化されていくのが相聞歌などなのか?
西行が険しい山に入ると木の枝に言葉を書きつけ、往生した僧がいたので、それに返歌した歌だという。遁世した僧の往生の姿を見て在家の武士であった西行が自ら「もとどり(髪)」を切って出家した様子は、自然死に近い形で往生した(澄める月をいつまでもみる)僧に対してのあこがれがあった。それは、源信(恵心僧都)『往生要集』から法然・親鸞の浄土真宗の間にいた僧だという。源信は横川の僧都と言われ『源氏物語』でも影響を与えた僧で極楽・地獄世界を表した人である。つまり密教的な天台宗の流れから、法然・親鸞という誰でも御経を唱えれば成仏できるという浄土の思想、それはまだ念仏という形ではなく和歌だった。
吉本の西行論は、辻邦生『西行花伝』と似ていると思ってしまうのは、同じ頃の論考なのか?
『西行花伝』の方が後だが、吉本の『西行論』のすぐ後に書かれているので辻邦生の方が影響を受けたのかもしれない。しかし女院(待賢門院)との関係は作られたものだとしている。
「思ひきや」の歌は西行の歌には存在しない。ただ『山家集』に似たようなやり取りがあり、そこから西行の歌を創作したという。「おもいきや」の初句切れは『新古今集』のスタイルで模倣がしやすかったという。ただこのような類型歌が多いのは西行の歌の特徴でもあるという。即興的な歌が得意な西行ならではなのか?それは西行の説話では無視出来ないことだったのだ。西行の特異性(英雄譚)ということか。
「深き山」は比叡や高野山の聖地を意味するが、西行はそういう修行僧であるよりも遁世僧だという。
西行の理念としては苔むす深い山への憧れはあったのだが、うきよも捨てられすにいた。鳥羽院の北面の武士の中での西行は当時流行っていた浄土思想に憧れていたということもあるが、エリート集団である北面の武士たちに嫌気がさしたこともあるのだろう。なによりも鳥羽院のやり方が女院と子である崇徳院を疎外する政治的な策略があった。また西行は平清盛のような強力な武士集団ではなく佐藤家という地方受領の出身に過ぎなかった。
しかし出家直後はそれでも都の動向(崇徳院)を気にしていたという。
西行は出家して初めて権力構造を外から見ることが出来たという。
2 武門論
西行が北面武士として仕えていたのは鳥羽院だった。そのときの同期として平清盛がいるのだが、西行が鳥羽院側に付かなかったのは母方の源の血筋という、それは『源氏物語論』での考察「母系論」とも繋がってくる。つまり、西行が所属していた共同体が母系社会の受領性であり、それは清盛の中央集権的な父性社会とは違っていたということである。
そのことが西行は待賢門院璋子との関わりの中で鳥羽院ではなく、その息子である崇徳院に付くことになったのである。その中で西行と待賢門院の関係を恋愛関係とみなす後世の物語に絡め取られるのだが、西行の中にあったのは武士としての義であり愛ではなかった。共同体の論理は吉本隆明の根本にあるものであるから、そこで武士の権力構造が摂関政治にあるわけでそうした構造があるにも関わらず西行が朝廷の敵側として崇徳院に仕えなければならなかったのも武門としての「義」であったのである。
西行が崇徳院を仁和寺(保元の乱で息を潜めていた院)に見舞ったときの歌は、かげであるにもかかわらず澄む月に照らされた自身の心を崇徳院と重ねているのだ。西行の武門としての行動があったのはこの数日間だという。西行が崇徳院側に付いたのは極めて自然なことだった。その感情が書かれたのが『保元物語』だという。
鳥羽院の死によって崇徳院が反乱を起こす行為(側近にたぶらかされたという説)は浅ましいとするが、西行がそれでも崇徳院側に付かねばならない義はあるのだった。
そして西行が晩年に藤原定家に判者を依頼した『宮川歌合』での問題作がそんな西行の武士の義を詠んだものだとする。
左は鳥羽院が死去したときに詠んだ歌だとされる。右は崇徳院を尋ねたときの歌で、西行の心持ちをまだ青二才の藤原定家に判じよというのも酷な話ではある。
西行「歌人論 劇」
吉本隆明『西行論』から「歌人論 劇」。
新古今集の極限の理想形は藤原定家の言葉だけの絵画世界を詠んだ和歌だとする。
それに対して西行の和歌は絵画的イメージを算出するが、歌の意識の中にどこか西行の「西行的なるもの」を残している傑作郡は『新古今集』には納められずに「『新古今集』なるもの」の和歌であった。つまりそれは藤原定家の理念とは対立するものだった。
涼む木陰を目指していくのは西行であり、他の誰でもないのだ。その特徴は恋歌にこそ現れるという。
それらの歌は題詠として詠まれたにもかかわらず七転八倒する西行の姿を現さずにいられない。この「西行てきなるもの」は『新古今集』では包容しきれずに無難な西行の歌を選ぶしかなかった。『新古今集』での西行は確かに多くの歌が掲載されてはいるが、それは「『新古今集』なるもの」によって切り取られた西行の姿であるとする。
西行が出家すると決めたがなかなか出難しがたい気持ちを口ごもりながら詠んでいるので、わかりにくいという。そうした劇的な場面に何度も立ち会っては歌を詠んできた西行なのである。それは帝の争いごとに巻き込まれ、現世の世界を離脱しようとするにもかかわらずにいる西行の姿であり、内省の過程を歌にすることは極めて自然であることだったのだ。
心と世(まとめ)
吉本の西行論は、目崎徳衛の西行論の発展系のような気がするが、そこから吉本が西行の後ろに親鸞を見ているような気がする。そこに「信」という信仰の問題が出てくる。これは虚構性をどう「信」に発展させていくかの問題になってくると芸術論を超えて哲学的な論理の話になっていくというか、吉本が小林秀雄を見ているのは確かなのだが、このへんは難しい。
西行は仏道としては、源信(恵心僧都)『往生要集』から法然・親鸞の浄土真宗の間にいた僧だという。源信は横川の僧都と言われ『源氏物語』でも影響を与えた僧で極楽・地獄世界を表した人である。つまり密教的な天台宗の流れから、法然・親鸞という誰でも御経を唱えれば成仏できるという浄土の思想、それはまだ念仏という形ではなく和歌だった。 西行の仏道は修験僧体験などもあって本格的な高野山の僧侶として、弘法大師伝説のように庶民の間に広まっていった。西行の月の歌はそのような静的な無常観(小林秀雄『無常ということ』なのか?)が多いという。
それに対して桜の歌は、西行が『古今集』から学んでいたので仏道よりは恋の道の歌が多くそれも劇的に西行が創作した部分が多く、その歌によって西行伝説の中に禁じられた恋愛劇を見てしまうという。それは西行の歌道の『源氏物語』であり、『伊勢物語』なのだ。そのような幻想世界へ誘うのは、現実世界では北面の武士であり、西行が北面武士として仕えていたのは鳥羽院だった。そのときの同期として平清盛がいるのだが、西行が鳥羽院側に付かなかったのは母方の源の血筋という、それは『源氏物語論』での考察「母系論」とも繋がってくる。
つまり、西行が所属していた共同体が母系社会の受領性であり、それは清盛の中央集権的な父性社会とは違っていたということである。そのことは西行の出家としての理由でもあるのだが、厭世的な観念を持ったという。それはいろいろ西行説話の中で取りざたされるのだが、そうした物語は過去の人が見た虚構であり、西行の歌が虚構性を楽しむものが多かったのとリンクしてきたのだという。吉本の西行論は、目崎徳衛の西行論の発展系のような気がするが、そこに吉本が西行の後ろに親鸞を見ているような気がする。そこに「信」という信仰の問題が出てくる。
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