宮沢賢治のキリスト教世界の憧れ
『宮沢賢治の真実 : 修羅を生きた詩人』
梯久美子『サガレン』を読んで宮沢賢治に興味を持って、引き続きこの本を読んだ。
この「真実」という言い方は「事実」は一つだが「真実」はそれを語る人の数だけあるということだ。これは今野勉が思う「真実」であって、宮沢賢治の「事実」ではないかもしれない。ただ宮沢賢治の同性愛についてはETV特集でもやっていた。そこから「銀河鉄道」のモデルとするのはどうなのか?
例えば吉本隆明は『源氏物語』のモデル探しは直接的には文学と関係ない話だという。それは紫式部の創作として光源氏像を当時の権力者や天皇からイメージを持ったとしても、それは紫式部の光源氏というヒーローの複合体であり、必ずしも一人のモデルであるとはしないからだ。
『春と修羅』詩の分析は見事なのだが、たぶんわたしが「春と修羅」に惹かれてしまう理由も示されているのだと思う。一つは修羅というルサンチマンが何ゆえ賢治に生まれたのか?また宮沢賢治は仏教の世界を追い求めながらもキリスト教世界の物語を追い続けるのはどうしてなのかとか?そこに広い「愛」という意味性はあると思う。仏教ではなかなか出てこない言葉だ。お釈迦様の慈愛ということだが、賢治は自愛に陥っていく。ただそれらは妹の追想ということでいいような気がするのだ。
同性愛的な世界は賢治の宗教上に闘いのような気がする。どっちがすぐれているかの対立で、賢治は法華経への改宗をキリスト教の友に求めた。しかし、友からは拒否される。さらに妹にも強制するのだ。賢治の実家は浄土真宗で日蓮宗とは宗派が違う。それでも兄を尊敬する妹は賢治の同志になった。しかし、そこが地獄だったのだ。その浄化として旅が「サハリン」だった。
それが『銀河鉄道』まで続いているのだと思う。それは今までの解釈であって著者によれば『銀河鉄道』のジョバンニはその同性愛の友達だという。ジョバンニ=ヨハネという使徒との和解の物語なのか。ルサンチマンから和解というのはわかりやすいと思うが、やはり妹の存在の大きさだろうか?
賢治が仏教に真理を求めながらもキリスト教的な世界への憧れがあるのが『銀河鉄道の夜』だろうか?
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