富岡多恵子編集の短歌論
『短歌と日本人〈4〉詩歌と芸能の身体感覚』富岡多恵子
「短歌と日本人」全7巻シリーズの4巻目が富岡多恵子という歌壇からではない編集者を起用したのが面白かった。例えば70年代の学生運動が終わり、前衛詩などの朗読が行われた時代に富岡多恵子の詩に坂本龍一が曲を付けるというミスマッチもあったのだ。
この時の感想で、富岡は自分の詩が歌ではなく朗読だけになったことは恥ずかしさが先立って(プロではないので)歌どころではなかったと正直に話す。坂本龍一の曲が高すぎるとキーを下げてもらったり当時は坂本龍一の方が格下の学生だったから随分と無理な注文だったと告白している。道浦母都子は都はるみから直接彼女の短歌がいいから歌いたいと注文を出されたという。それまで作詞はしたことがなく、まして短歌なので文語体を歌詞にする苦労があったが、都はるみはさすがプロだったのかこちらはけっこう聴ける演歌になっているかもしれない。
現実的には短歌のリズムとは相性はそれほど良くないようだ。短歌というと「歌会始め」での一文字一文字伸ばすような、和歌が祝詞から始まったというのがわかる感じなのだが、演歌は歌い手が上手ければ短歌もリズムに乗るのかもしれない。それは坂本冬美『夜桜お七』が歌人林あまりの作詞によるものだった。
詩と歌ではパンク歌手である町田康の発言も面白かった。ロックのリズムで最初は前衛ジャズのように延々と詩と演奏が対峙するようにやっていたが、ある時から演奏と詩を分離して、むしろ聴きやすい詩にしたという。当時は矢沢永吉のような英語なまりの日本語というようなロックンロールから、サザンオールスターズになると日本語は雰囲気を伝えるもので、湘南とかサーフィンとか記号のように、そこにアメリカのサザン・ロックの演奏を合わせた。つまり日本語に重きは置かれなかった。ニューミュージックというものがフォークと違うのは歌詞よりもサウンドの重厚さで聴かせるという風に変化していく。その最先端がザザンであり、女性ではユーミンであったのだろう。そこに反発したのが町田康のパンクだということだった。
町田康のパンクを富岡多惠子が褒めているのはそれが河内音頭や浪花節的な関西弁にあるという。それは中央(ユーミン・サザン)に対する周縁のコトバ(関西方言)ということだったのだが、今は関西弁もポピュラーに成りすぎてしまったのかもしれない。
「歌人がアイドルスターになるとき」斎藤美奈子
短歌のリズムのことと関連してくるのが、短歌のキャッチコピー化現象がある。その最初に登場したのが俵万智だった。俵万智『サラダ記念日』は同世代の女性よりもオヤジたちに支持された。渡部昇一から大江健三郎まで、この二人が同時に支持するというのもなかなかありえない現象なのだ。どこにその秘密が隠されているのか?それはオヤジ殺しのキラーフレーズ(殺し文句)にあるのだという。
それが可愛い女であることの保守化という。短歌のキャッチコピー化は今も続いていて、木下龍也『あなたのための短歌』での短歌ブーム(それは木下龍也ブームだというのだが、いまだに俵万智ブームでもあると思う)があると『短歌研究 2024年1月号』で平岡直子が指摘していた(平岡直子『木下龍也の「き」はキリストの「き」』)。
これは短歌のコピーライト化(軽薄短小)とつぶやき(SNS化)にあるという。コピーライディングは消費生活を促す金に関わる経済領域である。それはアイドルが支持する理由として「処方箋みたいに、お守りにみたいになる一首が必ずあるから」(上白石萌歌)とい生きづらい社会を肯定していくキャッチコピーなのだと思う。その反対に短歌が仲間内だけの難解短歌もあるのだと思う。反動としてのキャッチコピー的なコマーシャリズムを拒否する。
この短歌のキャッチコピー化を定着させたのが俵万智だった。
その歌集が与謝野晶子以来の大型歌人登場という1978年の短歌ブームを引き起こしたのだ。それはほとんど俵万智ブームでもあった(その裏で穂村弘『シンジケート』が自費出版された)。
俵万智の短歌の特徴は口語短歌のキャッチコピー化なのだが、もうひとつユーミンの歌詞のようなハイソなライト文化の憧れ(まさにそれが80年代のコピーが台頭する消費文化であるわけだが)がある。ひとクラス上を目指す大衆文化の欲望というやつだ。
この短歌の中にアメリカ的なライト感覚(同世代の女子が好む)ものと二本的泥臭さ(保守主義的なオヤジが好むフレーズ「しろたえの夢」や「我が青春忌」という言葉を潜ませる)があるという。精一杯都会に出てきて頑張る地方のお嬢さんというところだろうか(そして彼女は都会の青春時代を終えて地方で古典の教師とかなるのだ)?見事すぎる分析だった。
「短歌・俳句における古と稽古」高橋睦郎
この批評は面白い。短歌と俳句の明確な違いを述べていた。まず「稽古」というのは中国の最も古いとされる『書経』から「イニシエヲカンガエルコト」から来ているという。古とは祝詞などを収める聖なる器のことで、古来から伝承される聖なるものであるからそれが規範となって稽古ということになった。そして中国では『楚辞』『詩経』まで遡り詩歌が稽古の規範となるのは当然のこととされたのだ。
ただ中国は儒教的な思想が強くあり、それを我が国に当てはめることよりも我が国の詩歌を率先させていくのだ。それが恋の歌の始まりで、『万葉集』は雄略天皇、『古事記』ではスサノオウ、あるいはイザナギ・イザナミの昭和まで辿ることが出来る。
イザナギ・イザナミの唱和というのは歌垣のプロローグ。スサノオウの八雲の歌は祝婚の言祝ぎの歌とされ、雄略天皇は巫女の口寄せが元になった神の歌だという。
そして『万葉集』が編纂されたときに多くの恋の歌が入れられた。それは男女間での相聞歌が多くあるからなのだが、『古今集』になって季と恋に分けられるのも季ももともと恋の歌があったからとされる。『新古今』になって純粋な季の歌を多く作ったのは西行だとされ、それは恋の断念があり、それが季に向かわせたということらしい。この時代に歌僧が多く現れるのはそのような理由があるという。そして連歌師たちはそうした漂泊の人だったので、それが俳諧師に引き継ぎそして芭蕉が誕生したということだ。
芭蕉も西行を稽古したということなのである。本歌と本歌取りというのは、まさに稽古(レッスン)ということなのだ。今度からシン・短歌稽古にしようか?
そして問題は正岡子規の登場なのである。かれが『古今集』を否定して『万葉集』を褒め称え武士の歌を褒め称えたのも、稽古ということなのだが正岡子規は蕪村を古としたのは即物的・写生的な考えがあったからだという。それは恋の明星派よりは、季のアララギ派といいうことになるのか?
俳句の場合、それがいっそう明確になって、季が恋を駆逐するのだ。だから伝統的に短歌に恋の歌が多いのは頷ける。その恋の歌が苦手なんだが、今度からは恋歌を意識して作っていきたい。