死のリアリティ
『芽むしり仔撃ち』大江健三郎 (新潮文庫)
『大江健三郎小説1』から『芽むしり仔撃ち』。「高橋源一郎の飛ぶ教室」で大江健三郎の入門書として紹介されたが、初読みだった。初期の大江は読みやすい。中期になるとストレートに語らないで入れ子構造のメタフィクションになるから。芥川賞受賞作『飼育』の長編バージョンみたいだ。
「芽むしり」というのは間引きのことで、良い芽だけを選んであとは間引くこと。それが「仔撃ち」というタイトルになっている。
感化院の子供たちが戦時に疎開先である村に預けられるが、疫病が流行って村人は逃げてしまう。残った少年たちで共同生活になっていく。語り手の兄は年長者で対立する南(このへんは朝鮮戦争を暗示しているのかもしれない)という仲間がいる。そこに朝鮮部落の子供が加わる。村に取り残された母が疫病で死んだ少女も交えて子供たちの生活が始まる。
大江健三郎の小説のリアリティは死が隣り合っている世界として語られることだ。疫病にしても母を看病した少女が死と共に取り残されて、少女も疫病で死んでしまう。現在の病院に隔離されて家族でも会えないまま死を知らされるのとは違うのだ。現在の日本では死は隠されていく。大江健三郎がこの作品を書いた頃はまだ戦争の記憶も残っていたし、学生たちと権力側の激しい闘争もあった。今だとそういう死や汚いものは隠されるがこの小説には死や汚物にまみれている。現在のアニメ世代には受け入れられないかもしれない。
そしてそんな子供たちの共同体に脱走兵が入って子供たちと生活するが、村人が戻ってくると殺されてしまう。それは戦時の軍隊では当たり前のことだった。ベ平連なんかの米軍の脱走兵とかも連想させる。子供たちの共同体も学生運動のバリケードとセクト間の争いを連想させる。それは兄弟の中でも兄は愛人が出来て、弟は従属させる犬が出来て、一心同体でいた兄弟が離れ離れになる事件が起きるのだった。子供たちの中にある分裂と大人たちの統制の中にある村社会の閉塞感は今も問題となっている。