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「アンナ・カレーニナ」は文学史上永遠のヒロイン

世界文学オールタイム・ベストの1位『アンナ・カレーニナ』。トルストイは、冒頭を17回書き直したといいます。トルストイはドストエフスキーより浪漫主義的で理想論を描く。『アンナ・カレーニナ』と『戦争と平和』はトルストイの二大長編小説だが、『アンナ・カレーニナ』が女性をタイトルとしているように、「アンナ・カレーニナ」は文学史上永遠のヒロインだと思ってしまう。
(2024.02.08)

『アンナ・カレーニナ〈1〉』トルストイ、望月 哲男 (翻訳)

青年将校ヴロンスキーと激しい恋に落ちた美貌の人妻アンナ。だが、夫カレーニンに二人の関係を正直に打ち明けてしまう。一方、地主貴族リョーヴィンのプロポーズを断った公爵令嬢キティは、ヴロンスキーに裏切られたことを知り、傷心のまま保養先のドイツに向かう。

映画も観たのでストーリーは大体頭にあるのだが、アンナの登場するシーンが列車から降りるところだったとは、伏線張りまくりだったんだ。その列車が人身事故を起こすのだから、アンナの運命を知っているとそこだけで泣ける。最初は青年将校ヴロンスキーの愛の告白を拒んでいたのだが、夫カレーニンの保身(政治家としての地位)として良き夫人であれとの諌めを受けてから一気にヴロンスキーによろめいて行く。カレーニン夫人であるよりも「アンナ・カレーニナ」になった。

トルストイの描写の上手さに引き込まれる。最初に公爵令嬢のキティが文学オタク好きのするリョーヴィンのプロポーズを拒否して青年将校ヴロンスキーと婚約する。そしてそのキティが憧れる舞踏会の花がアンナ・カレーニナだった。舞踏会へ藤色のドレスのアンコール。だがアンナは黒のドレスで登場。

アンナにとってドレスは名画を縁取る額縁でしかない。黒のドレスでも引き立つ美貌。その美貌に目が眩むのが婚約者のブロンスキーでキティのことも置き去りにしてアンナとダンスを踊る。キティは生涯の屈辱となってしまう、汽車から降り立つ天使だったアンナがキティにとっては悪魔に変わってしまう。

『アンナ・カレーニナ〈2〉』

官僚としての体面と世間体を重んじる夫の冷酷な態度に苦しみながらも、アンナはヴロンスキーとの破滅的な愛に身を投じていく。愛するゆえに苦しみ悩んだ結論は…。一方、新しい農業経営の理想に燃えるリョーヴィンは、失意から立ち直ったキティと結婚生活を始めるのだった。

リョーヴィンの農業問題の論議は、ナボコフは不要と書いたそうだが、農奴と女性の解放と自由はセットになってリョーヴィンのロシアの結婚や人生というテーマにもなっていく。その反対側にアンナ・カレーニナとヴロンスキーとのゆきずりの不倫愛がある。日本の白樺派もトルストイから影響を受けたのはリョーヴィンの人生観というか、描写も白樺派に影響を与えたのだろうなという労働の喜びやキリスト教的な愛の姿が描かれる。リョーヴィンがせっせと農業問題を兄と議論し畑を耕し作付けをしていたら、いつの間にかアンナが妊娠していたという驚き。

トルストイの描写もさることながら構成も見事で、リョーヴィンが農業経営をする地主であり、ヴロンスキーが軍人、アンナの夫のカレーニンが政治家で、そうした特性を生かしている。アンナの姉が夫の不倫に耐える主婦。ヴロンスキーとアンナの不倫で、決闘を恐れたカレーニンは政治的手段に離婚も考えてあれこれ策を巡らす。その狡猾なカレーニンがキリスト教的な愛へと改心していく。

アンナとヴロンスキーの愛は敗北。すでに溺死状態だったのに、まだ全体の半分なのはこれから先はリョーヴィンとキティへの良き結婚と人生の対比として描かれていくことになるのだった。ブロンスキーは完全な当て馬だったとは。馬と一体となって落馬もするしね。

『アンナ・カレーニナ〈3〉』

イタリアから帰国し息子セリョージャとの再会を果たしたアンナだが、心の平穏は訪れない。自由を求めるヴロンスキーの愛情が冷めていくことへの不安と焦燥に苛まれながら、彼とともにモスクワへと旅立つ。一方、新婚のリョーヴィンは妻キティとともに兄ニコライの死に直面するのだった。

リョーヴィンとキティの結婚、妊娠とアンナとブロンスキーの傷心旅行(一時的な逃避行)と帰還した後に二人の間にズレが生じてくる。二つの物語が並行し(あるいは対比し)交じり合う(貴族院選挙)リョーヴィンとブロンスキーの火花がパチパチ。カレーニンは孤独生活の中で息子を生きがいとするのが、そこにお節介な夫人が登場して、アンナと息子の出会いを妨害するが、アンナのカレーニン屋敷強行突破!オペラハウスでも顰蹙を買ったアンナはペテルブルクの社交を爪弾きにされ、そこにアンナの兄嫁であるドリーのアンナ訪問の共感と違和感。

解説で馬と牛のイメージは見所が面白い。ヴロンスキーは馬を愛好するタイプでリョーヴィンが牛を愛好する。馬は乗馬でアンナが乗馬する姿はじゃじゃ馬娘か、ドリーにはそれが最初は違和感に見えてが自由なアンナの姿に憧れの視線もある。ただ乗馬するアンナは避妊しており、さらに出産を躊躇う。

リョーヴィンの牝牛は子供を産んでそれが多産の象徴であり、キティとの関係性も物語っている。イメージとしては鉄道もそうで、リョーヴィンがロシアでの鉄道を拒むのは性急すぎる変革であり、それはアンナの行動(女性の自由と解放は)にも言える。アンナは自立することが出来ない社会でもある。

アンナとブロンスキーの傷心旅行でブロンスキーはアンナの肖像画を描く章はトルストイの芸術論も伺える。ショートカットになったアンナが豊かな髪を着飾った社交界(あるいはキティの結婚式)から遠い場所にいるのであり、帰還してからヘッドドレスをして社交界への復帰を目論むが。

『アンナ・カリーナ 4』

「そうだ、死ぬんだ!…死ねば全部が消える」。すべてをなげ捨ててヴロンスキーとの愛だけに生きようとしたアンナだが、狂わんばかりの嫉妬と猜疑に悩んだすえ、悲惨な鉄道自殺をとげる。トルストイの代表作のひとつである、壮大な恋愛・人間ドラマがここに完結。

第7部でアンナが鉄道自殺してしまう。まだ第8部が続くので物語の主役はアンナよりもリョーヴィンなのは明らかだ。第8部は哲学と宗教を巡るリョーヴィンの反省会。トルストイのキリスト教的アナーキズムはリョーヴィンにより体現される。アンナはエゴステッィクな個人主義の愛のアンチテーゼとして引き立て役なのだ。アンナが嫉妬の感情を「悪魔」と名付けるのは、神の愛と悪魔の嫉妬心の弁証法的な物語が「恋のフーガ」となって盛上がっていくストーリー展開。だが果たしてダークサイトに堕ちたブラック・アンナは悪女なんだろうか?

リョーヴィンの地主貴族の神より授けられた者よりも、もたざる者(農奴と女性)の自由と解放を欲望して生きたアンナ・カレーニナ。問うことを止め神に委ねたリョーヴィンは近代小説だが、アンナの問いこそ現代文学の闘争=逃走がある。繰り返される問いに対して(鉄道自殺が多い現代の線(路)と繋がっていく問題として)、汽車の中へ疾走し散っていくアンナの姿を目撃せよ!

夫の為に犠牲となる典型的な主婦ドリーを訪ねて、リョーヴィンの幸福の家庭を飛び出し、街を彷徨い、汽車に飛び込むアンナの意識の流れは、描写としても素晴らしい。その疾走感!
2016/05/19


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