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放哉と山頭火似ていて非なる者

『放哉と山頭火: 死を生きる』渡辺利夫 (ちくま文庫)

学歴エリートの道を転げ落ち、業病を抱えて朝鮮、満州、京都、神戸、若狭、小豆島を転々、引きずる死の影を清澄に詩いあげる放哉。自裁せる母への哀切の思いを抱き、ひたひた、ただひたひたと各地を歩いて、生きて在ることの孤独と寂寥を詩う山頭火。二人が残した厖大な自由律句の中に、人生の真実を読み解く、アジア研究の碩学による省察の旅。文庫書き下ろし(詳細年譜付き)。

目次
尾崎放哉(コスモスの花に血の気なく
青草限りなくのびたり
脱落
つくづく淋しい ほか)
種田山頭火(洞のごと沈めり
泥濘ありく
関東大震災
観音堂 ほか)

出版情報

自由律はなんとなく分かっていたが放哉と山頭火の区別が付かなかった。なんとんく四国遍路で最後小豆島で一生を終えた漂白の俳人のイメージだったのだが。

尾崎放哉

尾崎放哉は違った。エリートで保険会社に入ったが朝鮮併合によって朝鮮へ。そこで仕事をやめて満州に行くがそれもどうにもならないと帰国。一燈園(宗教法人ではない新興宗教のような共同体)に入園したが、そこでの生活に耐えられなくなり脱走。別の浄土真宗に寺に厄介になるが、その和尚の愛人と酒を飲んだ挙げ句に悪酔いして寺を追い出される。また一燈園に戻っては他の寺に行けないかと奔走する。仲間や自由律の師匠である荻原井泉水(せいせんすい)が。

それで終焉の住処となったのが小豆島なのだが、そこでもいろいろ問題を起こしていた。酒癖が悪い放浪者ということろだろうか?それも荻原井泉水(せいせんすい)の自由律の理念に惹かれたというのはある。

芸術の制作は常に内部から迸らなければならない。外在的に牽引せらるべきものではない。生命ということは内的である。………生命は自ら萌え出でて繁って行く力であるが故に、他の何物にも代えられない自己が唯一正真のものがある故に、内的というのである。

それがアル中になってしまうとは。ただ放哉の自由律俳句は誰もが認めるものだった。最初に自由律に興味を持ったのも又吉直樹が感心していたからだが、それが酔っ払いの俳句だとは知らなかった。

つくづく淋しい我が影よ動かしてみる
落葉へらへら顔をゆがめて笑ふ事

酔っ払いの句だと思えばそう読めるな。それが人生の究極の姿を詠んだと思ってしまったのだ。

たつた一人になり切つて夕空
なぎさふりかへる我が足跡もなく

このへんは自立した漂白の詩人という感じだったのだが、住む所を追い出されて困惑している姿だった。

淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る
足の裏洗へば白くなる

究極の旅人が足の裏をしみじみ眺めているのかと思ったら久しぶりの宿や風呂を喜んでいる俗人の歌だった。でも俳句だけ読むとなんか透き通った精神みたいに感じてしまうのだ。まあ晩年は、死期を悟って小豆島の自然に溶け込む感じだったと思うがそれでも結構ジタバタしているような日記(食べ物日記)を残していた。肺を病んでいたのだが、師匠である井泉水にもう最期だと思うから外国産の煙草を送ってくれと手紙に書いたり。それも業といえば業なのであるが、酒も自由律の大家と見られ小豆島に尋ねてくるものがあれば酒と食べ物をねだるしょうもない人だった。ただいろいろ世話をする人の中で迷惑を掛けながらも自由律を詠み続けた人ではあったのだ。

淋しきままに熱さめて居り
淋しい寝る本がない

そして食べることが出来ずに骨と皮になった自分の姿を銭湯で見つめる姿は哀れであった。

肉がやせてくる太い骨である
春の山うしろから烟が出だした

種田山頭火

もりもりともりあがる雲へ歩む

山頭火の辞世の句なのだが、この明るさからは想像できないような悲惨な人生だった。尾崎放哉のアル中は自業自得のような気もしないではないが、山頭火は飲まずにはやっていけない程、人生の悲惨さだった。それが定住を拒み、放浪の俳人として旅を続けた。

それは死地を求めてと言っていいかもしれない。

いつまでも死ねないからだの爪をきる

放哉も山頭火も死地を求めていたが放哉が小豆島にたどり着いたのは偶然の産物だが、恵まれていたと思うのだ。山頭火は、死地を求めながらもそれは特定の場所ではなかったよううに思える。野垂れ死にが相応しいと思っていたようだ。面白いのは放哉の死地である小豆島にも参じているのだが、やはりそこから旅立たねばならなかったのである。

いろいろと死地を訪ねているのだが、ようやく落ち着けた場所は句友のいる松山だった。そこで「一草庵」という終の住処を得たのだが、また放浪の旅に出て帰宅して臨終を迎える。

おちついて死ねそうな草枯るる

この旅死の旅であらうほほけたんぽぽ

山頭火の尊敬する放浪の俳人・井上井月がいた。その井月の辞世の句に対してだろうか?

何処やらに鶴の声聞く霞かな  井月

井月の墓参りの後に放哉の墓参りで山頭火が詠んだ句。

ふたたびここに雑草供えて

山頭火が放哉を尊敬していたのは人よりもその自由律の俳句だろう。同じアル中というのもあったかもしれない。ただ山頭火は自虐的な酒だったような。その結果牢屋に入れられたり人に迷惑をかけるのは同じなんだが、放哉はいいかげんにしろというのがあるが、山頭火は許せてしまうのはなんでだろう?

うしろすがたのしぐれていくか

山頭火の友達も淋しい人が多くて、酒飲み友達であった国森樹明が山口市に「其中庵」と名付けて山頭火はそこで暮らす。そして国森樹明が娘を失明から自暴自棄になると山頭火も縊死した弟を思い出して、酒を酌み交わすのであった。

山頭火は母が自殺、その後に兄弟が次々に亡くなって、最後に弟が縊死したのだ。放哉の「咳をしても一人」に和して。

鴉啼いてわたしも一人

山頭火の定住できなさは近親者の死者が多く、心を病んでいたように思える。父が決めた縁談も家庭人にはなれない性格だった。この奥さんがいい人なんだが、山頭火はどうすること出来なかった。ちなみに奥さんを蝶に喩えていたとか。

大きな蝶を殺したり真夜中

死地を求めて漂流の旅に出たのだ。

分け入っても分け入っても青い山


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