アメリカ現代文学はナボコフから始まった
『ロリータ』ウラジーミル ナボコフ , (翻訳) 若島 正 (新潮文庫)
『ロリータ』は幼女性愛の物語というより、ファム・ファタール(運命の女)」に翻弄される男の物語であり、それは「ロリータ」を「カルメン」と呼んでいるように「ロリータ」の魅力にメリメ「カルメン」的なものがあるのだ。
そして語り手ハンバート・ハンバートと作者は別人格であるのはメタフィクション構造であり、セルバンテスと『ドン・キホーテ』の関係のようなものである。ドン・キホーテが亜流の騎士道物語から「騎士道」という幻想を抱いたようにハンバート・ハンバートもロマン文学的な恋愛物語的なものに幻想を抱いていた話なのだ。それは恋愛が精神的なものではなく、アメリカの物質中心主義というような、だから「ロリータ」をハンバート・ハンバートはフェチズムという物化するのである。
そこにメタフィクション的構造があるし、何よりもナボコフ自身がロシア→ヨーロッパ→アメリカと移動してきた作家なのである。メリメ「カルメン」的なロマン主義にはヨーロッパがあり、アメリカでは映画的なモダンな世界がパルプ・フィクション(ポルノグラフィー)の文体で描かれていくのである。それは極めて知的な文学に支えられているのであった。なによりナボコフがアメリカ現代文学の手本になったのだろうということは、その饒舌な文体を読めばロシアでもなく、ヨーロッパでもなく、アメリカ文学なのだ。その点翻訳者も極めて現代アメリカ文学風なのだと思った。会話とか村上春樹っぽような。結構理屈っぽいのはチェスが好きなナボコフらしいのか?
またときに詩があったり映画のシーンのようであったり、ハードボイルドであるのは文体の魔術師という感じだろうか?それはナボコフがロシアを亡命して、多国籍に生きてきたからだろか?また英語からロシア語に翻訳していたりするマルチバースの作家なのだ。
ただナボコフの観察眼がするどい描写は映画的(動的)であり、テニスウェアを着たロリータは、ウィンブルドンで優勝したかのような天才テニスプレーヤーとして妄想描写され、さらにそのコーチとして白髪頭のコーチ役としてハンバート・ハンバートがいるのである。ウィリアム姉妹のオヤジか!
ナボコフのメタフィクションスタイルはアメリカ文学のピンチョンやヴォネガットに受け継がれて行ったのだと思う。そして、大江健三郎もアメリカ文学よりラテン・アメリカよりだが、ナボコフに親近感を抱くのはそういう世界文学としてのナボコフのスタイルだろうか。
キューブリックの映画を見たのだが、その脚本を書いたのもナボコフだったが映画にすると7時間にもなるので、大幅にカットして、ハリウッドの倫理規制に合うよう作られたのでまったく別物になっていた。ただ銃によるアメリカのキリスト教信仰は、すでに捉えていたのだった。
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