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カフカとマルケスの間の「ダイヤモンド広場」

『ダイヤモンド広場』マルセー・ルドゥレダ (著), 田澤 耕 (翻訳)

三十以上の言語に翻訳されている、世界的名作。現代カタルーニャ文学の至宝と言われる。スペイン内戦の混乱に翻弄されるひとりの女性の愛のゆくえを、散文詩のような美しい文体で綴る。「『ダイヤモンド広場』は、私の意見では、内戦後にスペインで出版された最も美しい小説である」(G.ガルシア=マルケス)。

『百年の孤独』のマルケスが称賛しているスペインの国民文学を「カタルーニャ」語で確立した女性作家。スペイン市民戦争を銃後の立場から見据えた母の視線を口承的なカタルーニャ語で描いたという(語り手の巫女性)。それは市民戦争が市民の英雄たちの戦争ではなく、不条理的(カフカ的)なものを抱え込んでいた。それが鳩という象徴であり、マルケスが闘鶏で見出した(解説によると)男たちの浪漫なのである。その鳩の家で悪夢を見ながら、夫と鳩は戦争のために犠牲にしなければならなかった鳩の家として語られていく(そこに市民戦争の英雄視点があるのだが、彼女に取ってはひとりの暴君にしか過ぎない)。

女性の一人称の手記形式で読みやすい。最初は夢見る少女時代から、結婚、結婚後の苦労の多い日常(夫がどうしようもないボンクラ)から、戦時の銃後の不条理な日常とその中での子どもたちの成長。一つの家を巡る物語なのだが、作者はカフカ的不条理さを描き出したと。

鳩が夢の象徴のように語られる。それは夫の見果てぬ夢であり、面倒を見る妻の現実。そこに巣食うネズミの象徴性がカフカ的な不条理さを感じさせる家の物語であるのだ。

鳩に対する子供たちの視線(それは母とは反対であった)を織り交ぜながら次世代の成長した姿として娘を描く。娘は母のようになりたくはなかったのだ。結婚式を上げそのダンスする姿を見てノスタルジーのように語り手が一番幸せだった時代を思い出すのだった。それは「ダイヤモンド広場」で夫とダンスをした時代で、夢見る少女だった時代、そういう市民戦争前の幸福時代を思い出のように綴りながら、鳩がネズミになって巣食う「夢=無」のスペイン市民戦争の時代を見事に描き出す傑作文学。

夫が道楽もので働かないで妻が金持ちの家の女中として働くのだが、そこもどうしようもない家なのを内部から知る。腐りかけの家具や柱(キクイムシの住処となっている)、枯れていく植物たち、水を巡る戦い。その中で市民戦争が起き、彼女の夫は共和国側の兵士となっていく。金持ちの家の旦那はファシストになり、彼女は解雇され仕事を失い夫も戦死して、路頭に迷う。鳩の餌を買っていた主人と結ばれていく。その前に子供と共に無理心中をしようとしていた。

彼女たちは次第に平和を取り戻して幸せになっていくが、子供たちは母の背中を見て育っていくので、娘は結婚しない女になろうとしていた。街のお人好しの男に見初められて、母に娘との結婚を承諾させに行く。娘は断るのだが、最終的には結婚式を挙げ、その中で語り手である母は娘時代を思い出していくのだった。そこにカタルーニャの貧しいけれど大通り(実際には路地みたいな場所)があり「ダイヤモンド広場」という公共空間があったのだ。そこはカタルーニャのジプシーなどで賑わうお祭り広場的な場所で、そこでの青春時代、最初に身体を捧げた男と捧げなかった男との青春時代。

そうしためくるめく世界は幸福時代からスペイン市民戦争の不条理な時代へ。彼女は夫から小鳩ちゃんと呼ばれながらも、その鳩たちの巣食う家を憎み、やがてその家が廃墟となった柱にナイフで自分の名前を刻むのだった。

彼女が働き出ている間に子どもたちは鳩を家の中に解放して留守を守るのだが、前後して、息子を寄宿舎に預けなければならない別離の辛さなど読ませる。生活のために1人分の食い扶持を減らすために嫌がる息子を共和国の寄宿学校に入れるのだが息子にとってそこは地獄なのだ。

息子に対する母親の甘さや娘が母に反発していく様子なども描かれていく。その中で家族という共同体の中で人の良い面も悪い面も描いていくのだ。保守的なノスタルジー小説でありながら戦争の不条理さを描いた幻想小説のようにも読める。そこがマルケス的なマジックリアリズムなのかもしれない。そのマジックがカフカ的悪夢なのだが。


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