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『白鯨』を読む

『白鯨 上 』ハーマン・メルヴィル(岩波文庫)

巨大な白い鯨〈モービィ・ディック〉をめぐって繰り広げられる,メルヴィル(1819―1891)の最高傑作.海洋冒険小説の枠組みに納まりきらない,法外なスケールとスタイルを誇る,象徴性に満ちた〈知的ごった煮〉.新訳(全3冊)

ペリーの来航より前に書かれたのだった。ペリーの来航が1853年、『白鯨』は1851年。すでにアメリカの「捕鯨船が日本の閂を開くであろう」と書いている。イシュメールの見解は(メルヴィルの見解ではない)鯨は魚類だった。哺乳類だとするリンネの科学的根拠も論じながらそれでも魚とするのは聖書「ヨナ書」でヨナが飲み込まれたのは巨大な魚とすることから。イシュメールは(鯨)聖書の書き手である。イシュメールの記述は鯨学から捕鯨の説明とか一つのバイブルとしての「白鯨」を追ったファンタジー。

注によると船長の名前、エイハブは邪神バアルの従者。エイハブ船長の周りに集まる異教徒たち。イシュメールは聖書のイシュマエル由来。キリスト教徒として最初に出会うのが蛮族の王家の血を引く超人的な異教徒クイークェグ。スターバックはクエーカー(キリスト)教徒。エイハブに反抗して殺そうとして捕鯨の支配権を得ようとする功利主義者として描かれる。それが今の有名コーヒーチェーンの名前となっているのは面白い。その他乗組員は世界各地から水夫。

「白鯨」はレヴィアタン(リヴァイアサン=海神)でエイハブ船長と対立するのはなく、むしろ一体化すると考えたほうがいいかもしれない。エイハブ船長の義足は鯨の骨で、自身の身体の替わりに鯨の骨を取り入れた。ヨナが飲み込まれたとする聖書を書き換えた(ドン・キホーテ的に)。ドン・キホーテ=エイハブ船長、サンチョ・パンサ=イシュメール。
2019/08/05

『白鯨 中』ハーマン・メルヴィル (岩波文庫)

“モービィ・ディック”との遭遇を前にして、エイハブ船長ひきいるピークオッド号の航海はつづく。ほかの捕鯨船との“出あい”を織りまぜながら、鯨と捕鯨に関する“百科全書的”な博識が、倦むことなく、衒学的なまでに次から次へと開陳されていく。

未だ 白鯨現れず。白鯨に一直線に到達しないのは広い海で捕鯨という人間の狩猟だからか。ピックオッド号にヒエラルキー(階級)が存在するように捕鯨の獲物にもヒエラルキーがあるのだった。ダイオウイカが通り過ぎても相手にしない。白いから一瞬注目するが、それがイカだとわかったところで一反もめんの以下の如く通り過ぎる。同じ鯨でもマッコウ鯨が鯨族の長でありセミ鯨(蝉鯨かと思っていたが背美鯨と書く背中が美しい大人しい鯨)は捕獲したマッコウ鯨を船の側面に括り付ける為にバランスを取るためだけに捕獲されるセミ鯨。

マッコウ鯨の中でもモヴィ・ディック(白鯨)が頂点におり、それはピークオッド号のヒエラルキーと対応する。エイハブ船長が一番でそれ以下航海士と銛撃ちその他大勢で語り手のイシュメールは従軍記者みたいな感じか。長い船旅の中で獲物を仕留める以外は捕鯨のあれこれを講釈する。鯨の神話的世界。上巻で鯨族は魚類だとしたメルヴィルは中巻の最後にマッコウ鯨のハーレムで母子鯨にも語っている。へその緒と母乳があり、好奇心ある子鯨にそれを見守る母鯨。だがこの物語は聖戦だった。

母子鯨に雌の集団のハーレムの情景を描きながらも捕鯨という狩猟の中では海の怪獣との戦いなのだ。鯨族との戦争なのかもしれない。少なくともヒエラルキーの頂点に立つエイハブ船長とモーヴィ・ディックの闘いは。だがエイハブもまだこの時点で本来の姿を現してはいない。
2019/09/03

『白鯨 下』ハーマン・メルヴィル (岩波文庫)
フランス船の腐乱鯨と抹香のこと。マッコウ鯨はこの龍涎香の原料とされフブルジョア社会では香水になる。しかし、そのために鯨を腐乱したまま港に着けて解体するために強烈な臭気を放つのだ。もともとは鯨も生き物であり、健康な鯨は臭気を放つものではない。鯨の二面性腐臭と香水。

『白鯨』が世界文学であるというのは単にアメリカ文学というだけではなく前キリスト教的世界を描いているからだろうか。船長のエイハブは拝火教(ゾロアスター教)という悪魔であり、「モービィ・ディック」もレヴィアタン(リヴァイサン)という悪魔なのだ。キリスト教以前の神話的世界であり、ピークォド号が多民族の世界(様々な人種が乗り込んでいる)となって白鯨に飲み込まれていく。それは旧約の「ヨナ」の話を元にしているのだろうと思った。

s『白鯨物語 』丸山健二(眞人堂シリーズ)

1851年、メルヴィルの『Mony-Dick;or,the Whale』が推されてからおよそ100年後、少年だった丸山健二は、その圧倒的な世界観に心を揺さぶられ、
通信士として船に乗った
そして今、メルヴィルへのオマージュを込めて、新しい「白鯨」が生まれました。

メルヴィル『白鯨』の聖書的な記述をホメロス的騙りの文学としたのが丸山健二『白鯨物語』。その丸山節というべき騙りが『白鯨』にはよく合っている。物語は白鯨よりもエイハブ船長の精神の中で肥大化していく復讐心の愚かさを描く。でもけっして卑俗な人間としてではなく、イシュメールが語るエイハブはサンチョ・パンサが語るドン・キホーテだ。

エイハブの狂信さに対抗するのは凶暴化した白鯨でもない。むしろ絶えずエイハブを海から陸の人間に連れ戻そうとする理性的なビジネスマンのスターバック(スターバックスの出処だよね)だろうか。彼をしてもエイハブを制御できなかった。二人に交わされる人間性と怪物性(神聖と悪魔学)の交歓が縄と銛を付けて白鯨を追い求め打ち込められる。
2014/07/23

高柳重信多行俳句『白鯨論』

船焼き捨てし
船長は

泳ぐかな  高柳重信

高柳重信の一七文字で世界文学『白鯨』を表現していた。

まず「船焼き」は船長であるエイハブが拝火教(ゾロアスター教)であると指摘されていること。そして白鯨に襲われるピークオッド号が転覆して船を捨てざる得ないのだ。その描写はサメが血の臭いを嗅ぎつけ血に染まった海が渦巻いている地獄絵図(火炎地獄の模したような描写)だった。

そしてエイハブは放り出されるのだが、その後の空白の一行がまさに空白を象徴する白鯨なのだ。白鯨はなかなか姿を表さない。姿を表したときには船を沈没させている。そしてかろじて泳いで棺桶に改良された救命具によって救いだれるイシュメールがただ一人生き残るのである。

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