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オーウェル的バラ色の人生

『オーウェルの薔薇』レベッカ・ソルニット, (翻訳)川端 康雄, ハーン小路 恭子

ジョージ・オーウェルが一九三六年に植えた薔薇の生き残りとの出会いから、見過ごされてきた彼の庭への情熱に光をあて、精神の源を探るソルニット。豊かな思索の旅は、オーウェルの人生とその時代から、化石燃料としての石炭、帝国主義や社会主義と自然、花と抵抗をめぐる考察、薔薇産業のルポ等を経て、未来への問いへと続く。
目次
1 預言者とハリネズミ
2 地下にもぐる
3 パンと薔薇
4 スターリンのレモン
5 隠棲と攻撃
6 薔薇の値段
7 オーウェル川

オーウェルの半生をオーウェルが植えた薔薇を手がかりに綴っていくエッセイ。ただオーウェルの話ではなく、薔薇の話があっちこっち花咲かせている感じのエッセイで面白い。樹木の話なのだが、もっと根っこ的な(ドゥルーズ=ガタリ「リゾーム」になぞらえている)どこに話が飛ぶかわからない散文的な面白さがある。薔薇だけに棘のある話も。ソルニットの関心事である政治社会とかエコロジーの話から、その中でオーウェルの作品についてしっかり語っていた(花咲かせていた)。オーウェルの作品が読みたくなる本。

オーウェルよりもソルニットの文章が好きで図書館に予約していた。最初の樹木の話から心打たれてしまう。どんな悪人でも善人でも木を植えたときからその木の樹齢は始まり植えた者が亡くなっても三千年とか五千年生きるという浪漫。実際には街路樹は邪魔になった時点で切り倒されてしまうのだが、作家が愛した樹木のエッセイ(例えばすぐに思い出すのは幸田文『木』は縄文杉の遥か太古に誘う話だったかもしれない)。あるいは落ち武者伝説で平家の落ち武者がやっとことの辿りついたという楠木があったような。

そんな樹木に憧れながら都会育ちの私は、ネットを通じて樹木の精(仮名ハンドル)という人から平家落ち武者の楠木の話を聞いたのかもしれない。実際にそこに行って写真に収まらないほどの楠木を見て感動したのを思い出す。

さらに作家が植えた花ならばなおさら想像するものがあるのかもしれない。オーウェルの薔薇は見に行けないが、大江健三郎が植えたアナベルとかあったら見に行きたいと思ってしまう。

牧歌的な生活が好きなオーウェル(だから『動物農場』という傑作小説があった)が炭鉱のルポルタージュを書くために炭鉱に潜り込む。石炭が太古の植物が酸素を蓄積したエネルギーを人が産業化に用いて二酸化炭素を放出して自然破壊してるとか。太古の石炭紀(二億年前)の植物の努力の結果を数百年で放出してしまうのが産業革命だった。そういうスケールの大きな書き方が面白い。

鉱山仕事は暗闇の仕事なんだが。柄谷が漱石の『坑夫』を語っていたのはその暗闇だった。けっこう今読んでいる本が繋がっているのは近代から現代の問題を読み解こうとする本だからだろう。関東大震災もそうだった。柄谷行人が夏目漱石『坑夫』について書いていたがジメジメした地下世界の批評なのに、同じ坑夫を描いていてもこの違いはなんだろう。

ティナ・モドッティ「薔薇」の話。薔薇の写真に16万5千ドルを出すのは何でだろうと思うが和歌の幻想に近いのかもしれない。和歌が絵画的で見立てで屏風絵からあたかもそこに自然があるように詠んでいたりしたのだ。写真脳になるとそういう写真も違うんだろうな。から。モデルもやっていたティナ・モドッティは当時かなりモテたようで、薔薇より本人の写真の方が欲しいぐらいだ。

ティナはスペイン市民戦争でオーウェルのPOUMの将軍の愛人だったのだが、その将軍がスターリンの手先で党に従順でないものは次々に処刑していったという。オーウェルも命を狙われたとか。ティナはスペイン市民戦争で修道院の尼のような姿で貧しい子供たちを助けて数々の称賛を受けたのだが二重スパイだったのではいかと疑惑の人物だった。この二人を並べることでソルニットが言いたいことはなんだろう?革命はパンだけで生きるにあらず薔薇も必要だということなんだが。薔薇の悲劇としてティナを語っているのか?

そしてオーウェルはスペインから逃げ出し『カタロニア讃歌』を書いた。あまりにも有名な『1984』より『カタロニア讃歌』の方が好きなのはけっこうやんちゃなオーウェルを感じられるかもしれない。そういういえば『1984』に出てきたヒロインは二重スパイだったような。もうストーリーも忘れている。

読んだのが『1984』になる前の1983年だったのだ。その頃はノストルダムスの予言書のように『1984』が平積みで本屋で売られていて1984年になる前に読まなければいけない雰囲気だった。SFとしてはいまいちだと思ったような(後から考えるとディックはオーウェルからかなり影響を受けていると思う。そのディックを先に読んでいたので目新しさはなかったのかもしれない)。むしろスターリン時代のソ連をパロディにした『動物農場』の方が面白かった。一番好きなのはスペイン内戦を描いたルポルタージュ『カタロニア讃歌』。

この本でもイタリア人義勇兵の追悼文について語っていた。その詩が泣けるんだよな。ジャズのチャーリー・ヘイデンが『リベレーション・ミュージック・オーケストラ』を作ったのはオーウェルの『カタロニア讃歌』を読んだからだ。

だが私が君の顔に見たものは
いかなる権力も奪いさることはできない。
いかなる爆弾も打ち砕くことはできない
その水晶の精神を    ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』

ソルニット『オーウェルの薔薇』

ディックもオーウェル『カタロニア讃歌』から『暗闇のスキャナー』のあとがきを書いていた。

薔薇のプランテーションの話はソルニットらしい支配される国の低所得層の薔薇の棘の話である。ヴァレンタインや母の日に大量に出荷される薔薇は植民地化された国のプランテーションとしての産業だった。その中で効率化を求められてオートメーションの流れ作業のシステム世界が拡がっているのだ。その世界こそがオーウェル的と言えるような従属(奴隷)世界なのである。

それが中央集権化システムでありスターリニズムのソ連だけの話でもなかった。プーチンのロシアもトランプのアメリカもそうなのだ。それは共産圏の中国や北朝鮮だけの話ではなく、オーウェル的といえるような全体主義国家が生まれていく世界なのだ。また『1984』を読み直して見たい気もする。オーウェルはそんな世界の中でも全体主義に抵抗してに自由なささやかな楽しみを見つけことで抵抗していく人物を描いていたという。オーウェルから影響を受けたマーガレット・アトウッドは『1984』はディストピア小説ではないとまで言う。最後には政権が倒れたからこそニュースピークの関する論文が書かれたのだという。『侍女の物語』では、その形式を受けついだという。

ソルニットは全体主義化していく世界を感じながらもそこに希望を見出そうとする。

さまざまな可能性を見極めるために先を見据えて、警告を示そうと努める行為そのものが、それ自体で希望の行為なのである

オクティヴィア・バトラー




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