人生の最後に読みたい本
『シェイクスピアの記憶』ボルヘス,J.L【作】/内田 兆史/鼓 直【訳】 (岩波文庫)
ボルヘスの短編は人生の最後に読む本ではないのか?それまで文学を読み続け、文学的羊水が水中花のように、短い短編の言葉でも花開かされるのである。そういう意味では詩に近いのだが、もともとボルヘスは詩人であったのであり、晩年になって短編集を書くようになったという。それはボルヘスがいつまでも読書家でいるのに目が見えなく本が読めなくなったからそれまでの記憶の文学の総量が一つの言葉に凝縮しれているのだった。シェイクスピアだけでもそうした読書体験の記憶の断片なのだ。そのイメージがあらゆる文学と繋がり花開くのである。
そうだな、もう本が読めなくなったときに朗読してくれる人がいたらいいんだろうな。そういう人がいないから今うちに録音しておくとか。
「一九八三年八月二十五日」
ボルヘスと思しき人物があるホテルに予約していたら先客として分身がベッドに横たわていた。それは若い時に自殺したもう一人のボルヘスでその分身と会話するなかで、もう一人のボルヘスが彷徨っていた夢(文学)の現実というような幻想譚。ゴシック・ホラーのスティーブンソンの話(文学の鏡という)から様々な文学断片がガラスの破片のように散らばっていくイメージか。ボルヘスを読むには文学を読み込んでいるほど話のイメージがひろがっていくように思う。ここで扱われる分身と彷徨いのテーマとか。
「青い虎」
キプリング「ジャングル・ブック」の虎から抜け出した青い虎。キプリングは読んだことがないので『ちびくろサンボ』の虎をイメージした。その虎はすでに青い石となっているのか、青い石が虎の幻影を呼び出すのか、そのトリックは錬金術のような青い石なんだろう。虎がぐるぐる回って青いバターになったような。
「パラケルススの薔薇」
パラケルススは錬金術師というような。そんな彼が一輪の薔薇の魔力について語る。薔薇の象徴性というような哲学的考察になっていくのは、仏教の蓮のイメージかな。西欧人にとっての薔薇の花は、永遠の美みたいなものか?
「シェイクスピアの記憶」
ボルヘスが読んだシェイクスピアの記憶から文学的な人生が語られる。それはシェイクスピアの魔女たちの呪いの言葉なのか?
そうしたシェイクスピアの言葉から詩が生まれ世界を作り上げていく。その記憶がボルヘスの「文学空間と」呼べる世界なのかもしれない。
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