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100分de名著ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』

『ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』 2024年2月』朱 喜哲 (NHKテキスト)

民主主義の危機は、「哲学」が守る

「トランプ現象」を20年近くも前に予言したとして、一躍注目された哲学者リチャード・ローティ。真理の探求を目指す「理性」を重視する従来の哲学(近代哲学)を、社会の分断や差別を起こすものとして根本から否定する。 そして、『偶然性・アイロニー・連帯』などの著作権全体、「人」 「人との対話を止めない」ことを軸とする新たな哲学の役割を示唆し、あるべき社会の在り方を論じた
。はどのような社会を考えればよいのか。ローティのダイナミックな考えを念頭に、そのヒントを進めていく。

第1回 近代哲学を葬り去った男

「対蹠人(たいせきじん)」ローティも難解用語を使うから最初読んだ時何を言っているのかわからない。「対蹠人」とは正反対にある人だという。仮定の話でそういう宇宙人を想像して、その彼には心がなく、神経系統を分析して説明することは出来る。この宇宙人と対話できるかというと出来ないという。それはAIみたいな感じなのかなと思う。説明はするが感情を伝えられない。

ローティは「わかる」ということは感情(心)を伝えられることとしているようだ。

デカルトの「心」は歴史的条件の中で発明されたものであるとする。デカルトの歴史的条件とはキリスト教支配の社会であるということだろう。このへんは、構造主義哲学との共通性を感じる。

そしてローティは分析哲学を否定する。それは対象者を分析することで分析者は上に立ち、分析される者は沈黙せざる得ないからなんだと思う。

黙らせることを目指すのはやめよう

「論破する」ということを言っているのだと思う。この部分が過去の哲学からの脱却ということなのだが、プラトンのソクラテスが対話の哲学を言っていたことと通じるのか?ただソクラテスは論破の達人であったわけだが。

言語の生成文法にも触れているのだが、そだった環境によって言語意識の違いついて、これは母語(生まれ育った環境によって培われたきた言語)と母国語(国が支配する言語)の違いで、少数民族の言語を国語として「本当はこっちが正しいのだ」ということを強制(矯正)することであり、それは矯正される側の屈辱となるのだ。その感情がわからないと、正しい文法(法=ルール)が常に大多数の側に少数者を従わせることになるのだ。その危険性はジェノサイドを生む。

哲学者たちは自分たちが使う言語が絶対的正しいとするが、それは哲学者の中でしか通用しない言語だと気づかない。それは言葉は極めて特殊な「道具」であって、その言葉が力となるのだが、ボキャブラリーを持つ者だけが真理に近づくものでもない。例えば日本人が占領下の韓国人に日本語が正しいと強制すること(「再記述」と言っている。韓国語を日本語に矯正すること)は屈辱意外の何ものでないという。

言葉は偶然の作用によって変化していくものなのだ。そこに英語から生まれたピジン英語のような正しい英語ではない言語も生まれる。それはコミュニケーションの形態であるのだ。ピジン英語が主に通商からの必然性から生まれたことを考えればそれは国家の権力者が統制する言語ではないのである。

第2回「公私混同」はなぜ悪い?

ローティがいう「アイロニー」は皮肉という意味だけではなく「ロマンティック・アイロニー」だとする。第一はそれは自分自身の「終極的言語」を疑ってみること(他者の言葉を聞く)。第二に自分が使っている言語に限界を感じること。第三に他者の言葉より自己の言葉が優位にあると考えてはならない。それは自分以外の力(合理性、神、真理、歴史)に触れて正しいと考えてはいけない。

「終極の語彙(ファイナル・ヴォキャブラリー)」を否定される人は同語反復以外では二の句が注げなくなる。それは人は誰でも自身の行為や信念、生活から人生の物語を語る。その言葉を「終極の語彙」と呼んでおく。

この「終極の語彙」は「キリスト」「イングランド」「革命」「進歩的」と言った特殊地域の言葉であることが多い。「理性」とか「人間性」とか「人権」とか普遍的な言葉が「終極の語彙」となる場合もある。

アイロニストは自分の言葉が「終極の語彙」だと思っていない。たとえば「常識」という「終極の語彙」を使うのは地域性によって違うということ。
またその「常識」も歴史と共に変化すること。その地域特有の言語だと自覚することがアイロニストの第一歩なのだ。

常識を疑わない硬直した思考は、閉じられた社会になっていく。開かられた社会というのは、その常識を疑い、絶えず「終極の語彙」を他者に開いていく者だ。公共的な社会と私的な利害関係の中で、権力機構は安定化と同調化を目指していく。

哲学的思考ではプラトン以来この問題を問うてきた(倫理ということか?)そこに「共通の本性」があるとする。ローティは時代によってその「共通の本性」は変化していくとする。一方の価値観を排除することを求めないということは複数のボキャブラリー(コトバ)に対処していくことである。

それは他者の根本思想を変えていくのではなく、利害関係の中で共通するものを見出していくことなのだ。それさえもローティによれば「偶然の産物」であるということなのだが。

「リベラル・アイロニスト」という東欧ラトビア生まれのジュディス・シュクラーの言葉。

「残酷さこそが私たちがないうる最悪のことだと考え、それを避けることを求める思想」

だと述べている。それは最悪の暴力、人を辱めたり貶めたりしないこと。真理的残酷さもそこには含まれる。それは「バザールとクラブ」という比喩の中で広大なバザールでは公共空間のしんどさで、たまには憂さを晴らしたいという「クラブ」的空間もまた必要とするのだ。そのガス抜きになるのが「クラブ」だという。クラブは魅力的だが危ういのは、そこでは私的な空間なので差別的言動が行き交うかもしれない(業界用語的なものもそうかも)。

公私の一致という理想はなぜ捨て去るべきか

より強い者が弱い物を一方的に黙らせる事態は残酷さに繋がっていく。ローティは、残酷さを避けるためにも公私の一致させる理想を捨て去るべきだという。

今日はココまでにしよう。


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