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顔のことを言わなければ理想のお姫様なのだ。

『源氏物語 15 蓬生 』(翻訳)与謝野晶子(Kindle版)

平安時代中期に紫式部によって創作された最古の長編小説を、与謝野晶子が生き生きと大胆に現代語に訳した決定版。全54帖の第15帖「蓬生」。源氏が須磨へ隠棲して以降、末摘花は源氏の保護がなくなって貧しい生活を余儀なくされていた。邸は荒廃が進み侍従たちも次々と去っていった。源氏は花散里を訪ねる途中で末摘花の邸を通りがかり、思い出して声をかけてみる。貧しい生活を強いられながらも自分をひたすら待ち続けた末摘花の気持ちにうたれ、邸内を修理し足りない物を送り、ずっと面倒をみるのだった。

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「末摘花」のスピン・オフ的な話だが、前回は滑稽譚であったが今回は顔よりも心の模様が「蓬生」という題名になっているようである。紫式部は権力者の女を敵対勢力として、皇室出の女は同情を引くように描いているという。

ただ『末摘花』の場合は、浪漫的な要素を排除した皇室出の女でも教育がなってなければ「末摘花」のような女にもなりうるとする例なのだそうだが(橋本治『源氏供養』)この「蓬生」では見事に逆転させている。顔よりも心持ちということなのだ。それもただ待つという。

なぜ『明石』ではまめまめしく手紙を書いていたいる光源氏だったのに「末摘花」は忘れられいたのか?他には「空蝉」ぐらいしかいない。「空蝉」は自ら逃げたので手紙を出す伝もなかったとして「末摘花」は場所を移動せずにひたすら待ち続けていたのにである。そこが紫式部の気持ちの変化なのか?あるいは別人が書いたものなのか?私としては後者のような気がする。

それは紫式部の模倣を出そうとするその文体と紫式部が嫌ったであろう男の浪漫主義に溢れている一遍だと思うのだ。顔のことさえ出さねければ理想の姫物語になりそうだ。

なによりも自分のことよりも九州へ派遣されて行った叔母(この人が光源氏と通じていた皇室出の人であったのだが)が侍従をも連れて行ってしまう。それは「末摘花」に取っては大きな負担になるはずであるが、快く送り出していく。その時に自分の身の大切なものさえも与えてしまうのだ。叔母はここでは皇室出というより一地方官僚の妻でしかあり得なく毀誉褒貶に左右される女として描かれる。

結果待ち続けた「末摘花」が光源氏の栄光に預かるのだがその物語は紫式部のものかと思うと疑問に感じてしまうほど浪漫的な物語なのだ。

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