イオカステ(王妃)はマクベス夫人か?
『オイディプス王』 ソポクレス (著), 河合 祥一郎 (翻訳)(光文社古典新訳文庫)
「序(プロロゴス)」
コロス(合唱隊)登場前までという注釈。コロスは、劇の背景の解説や情景描写。ギリシア悲劇は舞台に登場する人物が三人までと決められている。このぐらいだと理解するのも早い。チェーホフとか登場人物多すぎ。
序ではオイディプス王、神官、クレオン(王妃の弟)。テーバイの国が疫病やらで災難続きなのをオイディプス王が嘆き、神官に問いただす。そこへクレオンが登場してアポロンの神託を持ち帰り、災難の原因は血の穢れにあるという。先王を殺した者が穢をもたらしたとして、犯人探しが始まる。
「ハロドス(コロスの入場歌)」
詩が歌われる。内容は神々の讃歌。神々の紹介。アポロン、アテナ、ゼウス、アルテミス、アレス。疫病神的なのがアレス。破壊の神。アポロンが光明神のちに太陽神になる。罪を暴き出す神(だから神託を受ける)。
「第一エペソディオン(第一場)」
オイディプスの犯人探しの決意表明。コロス(ここでは民衆を代表)、テイレシアス(事件の真相を知るらしい預言者)登場、オイディプスが問い詰めるが、事実を語ろうとしない。語れないことなのだ。王と預言者の口論が繰り広げられる。テイレシアスの謎の言葉(事件のヒント)。
「第一スタシモン(コロスの群唱歌舞踏)」
コロスの合唱は、神々の歌。王の讃歌と王の犯人説を否定。
「第二エペソディオン(第二場)」
義弟のクレオンの怒りは、オイディプスに先王殺しの犯人と疑われたことにある。それをなだめるコロス。そこにオイディプスが登場。
オイディプスとクレオンの激しい口論。オイディプスは完全にクレオンを犯人として非難する。怒りの感情だけの相手に理性的な論理性を求める難しさ。オイディプスはクレオン犯人説から、預言者テイレシアスを呼び寄せたのだと考える。全ては王(自分)を蹴落とす為の陰謀であるというような陰謀論者だった。
コロスもこの議論に参加。コロスは中立の裁判官の立場だが、クレオン寄り。だが王は聞かぬ。絶対権力を持つ王だった。
そこにイオカステ(王妃)登場。次々に増えているけど。ここは四人になっている。まあ、それでも理解するには複雑ではない。イオカステは直接に事実を知る者だが、いつ気がつくのがポイント。解説ではここが重要ポイントとされ翻訳者の 河合 祥一郎が持論を解説。
妻であるイオカステがオイディプスが先王殺しの犯人と知り得ているのか?というのがテーマ。自分はこの時点で妻は知っていたんだろうと読んだのだが、知っていたらもっと取り乱したはずだし(夫殺しの子と近親相姦を犯した重罪に耐えれず最終場面で自殺する)、預言を成就させなかったとする王妃のプライド(子殺し)は揺らいでいない。
そう考えるとそうとも思えてくる。自分が第二場で知り得たと思ったのは、最初に預言者テイレシアスが知っていて、次に妻のイオカステが気がついてというオイディプスが徐々に追い詰められていくミステリーだと思ったからなのだが、どうなのだろう?
古典新訳は、本文よりも解説が充実していて興味深い(すでに一度読んでいる人も対象としているからだ)。翻訳者である河合祥一郎はシェイクスピア先生だった。
シェイクスピア劇から考えると王妃は最高の悪女(褒め言葉、マクベス夫人のような)でなければならず、ここでも神に背く自らの行いに絶対の自信を持ち王の弱気を鼓舞する存在(『マクベス』のパターン)だ。そして先王殺しの実行犯は複数犯だったと部下の証言を得ている。オイディプスなら単独犯だからだ(事実はこっちなんだけど)。
オイディプス王はかなり自分犯人説に傾きかけている。さらに次の世代にも関わる預言さえ受けていた。
「第二スタシモン(コロスの群唱歌舞踏)」
ここでは、かなりオイディプスは神々の掟に背いた者として歌われる。神々の掟という点を注意したい。つまり預言を覆すこと自体が神々の冒涜なのだ。シェイクスピア時代になると自由意志が生まれてくるのか。絶対王政だから神よりも偉い!オイディプスは暴君なのだ。
「第三エペイソディオン(第三場)」
イオカステのアポロン神託へ参りに行く宣言。やましいことなどないとテーバイの人々に知らしめる。イオカステはオイディプス犯人説を否定する絶対的な自信があるから、その現れのシーンだ。
「コリントスからの使者登場」
コリントスの使者はオイディプスを育てたポリュボス王の住民。王が死んだので父殺しの預言は無効になったので、オイディプスを王として迎い入れたいとの使者。
イオカステの預言の不実は決定的なことになる。預言は迷信。
イオカステの言葉(太字)がフロイトの「エディプス・コンプレックス」の元になる言葉。
しかし、この後の使者の重大な一言がオイディプスの懐疑を掻き立てる。
両足の踝に金具を付けて河に放るように言われた。その金具を外したのが羊飼いだった使者だった。オイディプスの名の由来は、「腫れた足」。金具で穴を開けられた足の秘密を知っている者は王妃と王意外いない。王の依頼を受けて海に捨てるように言ったライオス王の家来を探しに行く。
その前にイオカステにその事実を確かめる。王妃はその話題を避ける。真実を明らかにしてはいけない。しかし、オイディプスは子供を殺すように命じられた家来を探すように命令する。哀れなお方と言葉を残して、イオカステ退場(駆け去るように)。
「第三スタシモン(コロスの群唱歌舞踏)」
コロスの群唱歌舞踏は神々を称える舞踏なのだが、最初は右回りで、次は逆回りで歌われるという。時間が関係するのか?時間を過去に戻そうとする物語のような気もする。
「第四エペイソディオン(第四場)」
話を戻して「第四エペイソディオン」。エペイソディオンとはエピソードということらしい。なんか『ジェダイの帰還』めいてきた。
オイディプスとコリントスの使者に、真相を知るライオス王から子供を預けられた羊飼い登場。ここでもまだ真実を語ろうとしない羊飼いなのである(引っ張るな)それは、最大の悲劇、王妃に告白させる為の劇だからだ。
「第四スタシモン(コロスの群唱歌舞踏)」
コロスは観客的視点であり、ストーリーとは別の情景描写だったりする。神々の讃歌。観客と神々の視線が舞台上の登場人物を観ている。主人公オイディプス王の悲劇だから、わかりにくいところはない。物語が見えてないのはオイディプスなのだ。観客と神々は彼の運命を知っている。そのやり取りをセリフのだけでドラマを生み出すのを神々の視線の解釈(伝承的な神話と民話)が歌と踊りによって現されるのは盆踊りと同じものかもしれない。
この群唱歌舞踏は、デーモン(荒ぶる神々)の鎮魂歌のようだ。
この歌と踊りは、供養の歌と踊りになっていく。
それで思い出すのは、中上健次『枯木灘』で「きょうだい心中」の物語民謡を歌いながら舞うシーン。中上健次はフォークナーから、ギリシア悲劇を学んでいた。貴種流離譚は物語の元型とする(折口説からだった)。
八重山民謡とか民衆の伝承が歌となって伝えていくスタイルは古謡と呼ばれ、黒人霊歌とも同根の歌だろう。リゾームと言ってよいかもしれない。ドゥルーズ=ガタリのその思想が出てきた頃の中上文学。それは親友である柄谷行人経由なのかもしれないが。ギリシア神話から大いに学んだ現代文学なのだ。
「エクソドス(最終場)」
使者による王妃自殺の報告。第三者が語ることで劇的な悲劇は客観描写となる。事実を知ったオイディプス王の怒りは、最初王妃に向けられた。だが刀をもって部屋に入る前に王妃は自殺。そして、最大の山場があった。これは教えられん。セリフだけ。
ダースベイダー誕生ではないのですけど放浪の旅に出るのでした。
「第二コンモス(嘆きの歌)」省略。まとめだった。
最後にアンティゴネーとイスメーネーの二人の娘が登場するがセリフはなし。アンティゴネーは、その後の悲劇『アンティゴネー』のヒロインです。一つの物語が終わっても次々に新エピソードが生まれるのは、『スターウォーズ』が最初じゃないのだ。