『ありふれた教室』、社会の中の「関心領域」はどこまで関わっていけばいいのだろうか?
『ありふれた教室』(2022年/ドイツ/カラー/スタンダード/1h39/DCP)監督・脚本:イルケル・チャタク 出演:レオニー・ベネシュ、レオナルト・シュテットニッシュ、エーファ・レーバウ、ミヒャエル・クラマー、ラファエル・シュタホヴィアク
アカデミー国際長編映画賞ノミネート(ドイツ)で日本公開されたようだが、この映画は面白い。学校内の盗難事件をきっかけに生徒と教師の対立。
子供の人権を守ろうとする新人教師が、子供や同僚教師、PTAと廻りすべて敵みたいになってしまうドラマをシリアスな視点だけど喜劇的に描いている。
ゼロ・トレランス(割れ窓理論という管理体制)という学校内の問題解決法を学校が取り入れ、学校内の盗難事件を移民(アラブ系)の生徒にせいにしてしまうが、それが誤解だったとわかるのだが生徒の両親から糾弾される。
新人教師は学校の管理体制には反感を持っており、独自調査(パソコンでの盗聴)をして、自身の盗難事件をある事務員のせいにしてしまう。それはパソコンに映った画像がその事務員の着ていた洋服の柄と同じだったからだ。ただこの事務員は否定したので、この事件は宙吊り状態に。職員室を盗聴していたということで、同僚教師からも反感を受ける。
教師の中にも体制側(学校側)と理性的に子供を守ろうとする人権教師といるのだが、新人教師も人権派というような正義感溢れる教師だった。この女性教師はけっこう良い教師だと思うのだが理詰めすぎるのか?その正義感が強い分だけ同僚や生徒から嫌われてしまうというような。
子供は感情的に走るもので、特に母親絡みだとそうなのかもしれない。この若手の女教師が悪いというのでもなく、学校という制度が社会というものを強制する場であるならば個人の情など考えようがないのだが、それにいたたまれなくなる正義の教師もいるということだが、そうした問題を思うようにコントロール出来ないのがこの社会なのか?特に学校教育という場での保守化路線はどこの国でも問題としてあるのだろうと思う。
ラストがポリスによって神輿をかつがれたように学校から排除される暴君となった生徒なのだが、彼がとりわけ暴力的というのでもない。ただ彼の味方がいないので自我を押し通すしかなかったのだろうか?特に母親の善悪に関しては、子供にとっては母が正しいに決まっているのである。
そう言えば『落下する方程式』で最後は母に付かなければならなくなった盲目の少年を思い出す。子供は正しさよりも佳き(生きやすい)道を選ぶのかもしれない。
喜劇だと思うが当事者の教師にとっては悲劇であり、教職という職業に付かないで良かったと思えるのは部外者だからだろうか?。個人の人権と社会の秩序という問題はますます出てくるだろう。新人教師がポーランド系だというのも問題の底に流れる正義を炙り出しているような。『関心領域』という問題もあるのかもしれない。
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