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ギリシャ哲学の愛(徳)のレッスン
『ギリシャ語の時間 』ハン・ガン(翻訳)斎藤真理子(ノーベル文学賞受賞)
ノーベル文学賞受賞‼
英国ブッカー国際賞受賞作家、ハン・ガン氏の心ふるえる長編小説
「この本は、生きていくということに対する、私の最も明るい答え」――ハン・ガン
ある日突然言葉を話せなくなった女。
すこしずつ視力を失っていく男。
女は失われた言葉を取り戻すため
古典ギリシャ語を習い始める。
ギリシャ語講師の男は
彼女の ”沈黙” に関心をよせていく。
ふたりの出会いと対話を通じて、
人間が失った本質とは何かを問いかける
視力を失いつつあるギリシャ語講師(ボルヘスをイメージする)と言葉を話せなくなった女性とのギリシャ語レッスンは愛(アレテー=徳)のレッスンでもあり、そこにプラトンの洞窟の比喩のイデア論があるのだろうか?つまり視力を失いつつある教師は洞窟の中で光を求めているのであり、それを女性の中に認める。それは失われた言葉を取り戻すレッスンであり、ラストは詩のようになっていく。
男性と女性の書き分けが曖昧な感じを受けるのは、視力が弱まっていくことと関係してくるのか(二人の精神が融合する感じなのか)。男性はかつて親友を山の転落事故で亡くしていた。女性は離婚調停で息子の親権を失って手放さけれならず、さらに過去に愛犬が轢き逃げの交通事故にあっている。ふたりとも悲劇的な運命を背負っており、その受難を乗り越えていくストーリーだが、そこにプラトンのギリシャ哲学がある。
古代ギリシャ人にとっての徳とは、善良さとか高貴さなんかじゃなく、あることを最も巧みにやってのける能力だったというだろ。考えてみろよ。生きることについて考えるのに最も長けているのはどんな人間か?いつ、どこでも死にまみえる可能性のある人間──だからこそ、生きることについて常に必死で考えるしかない人間……つまり、まさに僕みたいな人間こそ思惟に関する最善のアレテー(徳)を担っているんじゃないか?
そして彼の消えつつあるイデアが彼女の口から言葉が発せられたときに話されていくというストーリー。ハン・ガンの中では光ある話だというが、氷の世界だった。霙が溶けていくぐらいの寒さか。
ここでのギリシャ語は古代ギリシャ語でそれはプラトン時代のもので今では古語になっている。そのなかに能動態でも受動態でもなく、中動態という動詞の状態があり、それが失われたのはローマのストア派のカトリックの教義であるようだ。プラトンのイデア論はオカルト(グノーシス)的なものもあるし、ギリシャの哲学が運命論でありギリシャ悲劇なのだ。『中動態の世界 意志と責任の考古学』國分功一郎参照。
そこに光を見出すのは、祈りの形態なのかもしれない。