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「橋本治」とは何ものだったのだろうか

『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』 橋本治 (新潮文庫)

“同性愛”を書いた作家ではなく、“同性愛”を書かなかった作家。恋ではなく、「恋の不可能」にしか欲望を機能させることが出来ない人――。諸作品の驚嘆すべき精緻な読み込みから浮かび上がる、天才作家への新しい視点。「私の中で、三島由紀夫はとうの昔に終わっている」と語って憚らない著者が、「それなのになぜ、私は三島が気になるのか?」と自問を重ね綴る。小林秀雄賞受賞作。

三島由紀夫は、太宰嫌いだから太宰頭好きなわたしは当然三島嫌いになった。しかし、そうかと言って優れた作家ならば読まねばなるまいと何冊かは読んだ記憶がある。

『仮面の告白』は三島由紀夫のデビュー作であるが、太宰治の「道化」が三島由紀夫の「仮面」だった。平岡公威はエリートコースを進む由緒ある家柄なのだ。その為に男色ということを隠蔽するために仮面「三島由紀夫」を付けた。それはある部分太宰と似ているかもしれない。裕福な家に生まれながらそこから逃れるために「道化」を演じていた。

三島の「仮面」が論理的であるというのは、二者択一でどっちか選ばねばならない。男か女か。そして、仮面か素顔か。そうした先に作り上げた虚構性がスターとしての三島由紀夫の姿だ。自衛隊の自決も三島由紀夫が呼び込んでしまった「楯の会」のメンバー森田必勝らの観念に取り憑かれていく。三島由紀夫が盾ならば、それは剣だったのである。

太宰治が道化を気取りながら心中という道化を演じきれずに相手の本気に引きずり込まれるように無理心中しなければならなかったとしたら、三島由紀夫も論理で引きずり込まされた感じがするのだ。パフォーマンスとして終わらせられなかった。それはスター三島由紀夫の唯一の誤算である。

三島由紀夫の論理的な思考は哲学的とも言えるかもしれない。そこが耐えられないというか、橋本治も同じような気持ちなのかもしれない。芸がないのだ。太宰の道化はレトリックで小説を読めばそのレトリックの上手さに気付かされるはずだ。女子高生になったり伝記上の人物になったり。しかし、その後ろには太宰の道化という芸術が控えている。上手いと思うのは、『人間失格』で処女短編集『晩年』にでてくる大庭葉蔵を再登場させていることだ。入れ子構造のメタフィクションとして、語り手の裏にもう一人の作者がいる。

三島由紀夫は仮面の後ろに平岡公威がいたはずなのに仮面が剥がせなくなってしまった。三島由紀夫は作られた人格だったのである。それを脱ぎ去ることも出来たのにそれをしなかった。言葉に溺れたとしか思えない。虚構の言葉を言霊として、そこには合理性はないのだが論理で処理してしまったのだ。それが三島由紀夫の文学ではなく哲学だったのだろう。

橋本治が戯曲『サド侯爵夫人』で論理(ロジック)とレトリックが融合されている傑作だとする。そこがわかりにくいレトリックなような気がする。結局、虚構であるはずのものを壊さなければならなかった。それは母という存在であるという。

サド侯爵夫人』が三島由紀夫の母親から否定された時に三島由紀夫が否定しなければならなかったものが母とその擁護者であった三島由紀夫であったとする。それは祖母からくる呪縛(サディズム)への決別であったとするのだ。祖母と母と三島由紀夫との三角関係が複雑な三島由紀夫の愛憎関係(マザコン)を形作っていたとする。

そこに三島由紀夫の女装趣味があったとするのだが、このあたりはよくわからない。女性性の拒否がその捻れた構造の中にあったということかもしれない。三島由紀夫の描く女性の系譜が『仮面の告白』の園子から『禁色』の恭子、『豊饒の海』の聡子の発展系として、最後は意味もなく凌辱しなければならなかったのは、その内なる女性性かもしれない。

その表れに男色という三島由紀夫の気質があり、三島の作家にとっての思想と気質の間で葛藤し続けたという。気質は永遠に非発展的なもので、思想の本質が発展性にあるならば気質の虜になった思想はもはや思想ではないと言っている。それが橋本治が三島由紀夫が認めようとしなかったものだというのだ。

そしてボディビルの肉体改造による変化が三島に新たな面を見せた。それまでの虚構の仮面にとらわれていたものが肉体改造ということによって同性愛的な気質を自身の中に見出すことが出来たのだ。そこに三島由紀夫の同性愛の決着の付け方があったのかもしれない。

そこにプルースト『失われた時を求めて』のシャルリュス男爵を重ねてしまうのだが、シャルリュス男爵の老いを経験擦る前に三島由紀夫は自決してしまった。マゾヒズムを拒否したのかもしれない。

このあたりの論考は橋本治ならではのものだが、よくわからない部分である。橋本の論理はなんとなくわかりそうなのだが果たして三島はその気質を超えてそれを思想にするために自決したのだろうか?そこに日本の虚構性の思想があるのは間違いないようなのだが、ある人々はそれを精神という言葉で括ってしまう。その美意識が理解できないのだ。

橋本治は三島由紀夫が男色という気質を弱さとして(欲望ではなく)処理しようとした。それが仮面という虚構の文学であった。しかしそこで三島由紀夫という虚構の仮面を付けながら今度は逆に肉体改造ということを通して、気質改善を行ったということなのかもしれない。最終的にはその身体を切腹という破壊しなければならないのだが。そしてその精神性だけが残ったのだ。それが、つまるところ「偉大な明治の再興」という日本精神なのだろう。

あとがきで橋本治が「反面教師」としての三島由紀夫を語っている。そうだとしたら橋本治に太宰を語ってもらいたかった。三島由紀夫が太宰治を「反面教師」として「道化」から「仮面」を被せた文学という行為を橋本だったらどう語ったか興味が持てた。結局、文学という虚構性の中に生きることが出来たのか?橋本治はそこで生きることが出来たのだ。「橋本治とは何ものだったのだろう」という興味が三島由紀夫より知りたいと思った。


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