節子さん(妻)側からの話も読みたい
『新編 石川啄木 』金田一京助(講談社文芸文庫)
渋民村の神童として注目された石川啄木とは同じ郷川の川上の人が啄木であり、川下の出身が金田一京助であった。同郷というのは盛岡の小学校へ啄木が転入してきたときだが、金田一の方が4歳年上啄木の十歳の時だった。
その年齢差からもわかる通り故郷ではそれほど接点はなく、ただ石川啄木の「神童」の噂は知られていたのだ。
金田一京助が石川啄木と知り合うのは、そういした神童時代を過ぎて、啄木が極貧生活の中で東京でやっていこうとする芽が出ない作家時代であり、東京の生活の中では同郷である後輩の啄木の才能を信じて援助することになった。
そういう意味では石川啄木の下積み(極貧)時代を知る人でもあり、その後病の中で作家としての才能を開花していく石川啄木を見続けた人である金田一京助の石川啄木追慕記は、石川啄木の入門書としては金田一京助の文章の魅力もあり面白い本だった。
ただ全体的に石川啄木寄りの手記なので、客観的に見るならば他の本も読まねばならないだろう。それは後年の思想的変化、それは芸術第一に生きてきた石川啄木が生活第一になり、さらに国家主義的な「社会主義的国家主義(社会主義的帝国)を推進していくことになるのだ。それは大逆事件の挫折ということらしいのだが。
金田一京助の言うところによれば生活第一主義だった石川啄木の当然の帰結であったとするのだ。それは金田一京助の変転でもあったのだと思う。
アイヌ語の研究者として、日本語に対する批評的視点が、中央(東京)に対するものとして、あったのだと思う。それが同郷石川啄木の芸術の改革と夢は、金田一京助の改革と夢と同根のものであったと思う。それは東北という地方性の問題とも絡んでくることなのだろう。
金田一京助が東大に招かれ国語辞書の編纂をするまでになるのだ。「啄木の思想的転回」は金田一京助の思想的転回とも読める。例えばアイヌ語は日本語に吸収されるべきだと考えていた。それ以後の日本の軍国主義の皇国思想に傾いていくのである。
そんなこともあって、「晩年の思想的展開」の章は注意すべきところであると思う。生活第一主義にしても、啄木は生活できた試しもなかったのだから。ただ晩年はやっと出版の目処もたち本も売れる流行作家になりつつあったのだろう。それでも病気の啄木はほとんど薬も与えられず極貧の中で臨終を迎えるしかなかったのだ。
やはり面白いのは極貧時代の共同生活というような、同じアパートに住み込むことになった東京での再開からの章からだろう。
そのアパートの家賃が払えなく、金田一京助の本を売ってまでして違うアパートに引っ越すのである。それは素晴らしい友情物語であるし、そこから啄木は田舎の両親と妻を東京に呼ぶのだが………。
その後の妻節子さんと啄木の母との折り合いが悪く節子さんが家を出てしまう。そのときに啄木がなんとか妻が帰ってくるような手紙を金田一京助に書いてくれるよに哀願するのだ。その手紙を書きながらボロボロ泣く金田一京助の人柄とやりきれない気持ちを酒で紛らわす啄木の姿が語られる。啄木はそんな苦痛を母に対して辛く当たる。そして、節子さんが戻ってきたら今度は啄木の母が節子さんに辛く当たる。その中にいるのが金田一京助で、啄木じゃないけど嫁姑問題の狭間で悩めるエッセイを書いているのだ。これは面白かった。
そんな生活の中で啄木が母に対する愛は、マザコンとも言えるものなんだと思う。しかしそれは当時の家父長制の姿を語るものなのだ。節子さんについては、金田一京助も同情は示しているが結局は啄木の母への愛情を否定できないどころか、その歌を最高のように褒め称えるのだ。
それが生活第一の根本にある現状肯定の思想なのだろう。啄木の後年の「思想転回」の道徳観は、儒教的なものを感じる。むしろ、それを読み取ろうする金田一京助のような気がするのだ。
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