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モデルはあくまでも秘密だ

『硝子戸の中』夏目漱石

写真撮影、講演、原稿持込、吾輩ハ不機嫌デアルーー。
人生と社会を静かに見つめる、晩年の日常が綴られた随筆39編。
亡くなる前年の大正4(1915)年、朝日新聞における連載

「漱石山房」の硝子戸の中から外を見渡しても、霜除けをした芭蕉だの、直立した電信柱だののほか、これといって数えたてるほどのものはほとんど視野に入ってこない――。
宿痾の胃潰瘍に悩みつつ次々と名作を世に送りだしていた漱石が、終日書斎に坐し、頭の動くまま気分の変るまま、静かに人生と社会を語った随想集。著者の哲学と人格が深く織りこまれている。ある日、作品のファンだという女性に、自分の身の上を小説に書いてくれと頼まれて……。

小島信夫『返信』という短編を読んだら、内田魯庵が漱石の小説の中では『硝子の中』と『文鳥』がいいという話。小島信夫『返信』は漱石『硝子戸の中』をパクっていた。

『硝子戸の中』は漱石の家に女性が訪ねてきて私の体験話を小説に書いてくれと言ったが、やっぱ書かないで話を聞いてくれということになり、その女は死ぬべきか生きるべきかと尋ねられた。私にあったのが光栄と思うなら生きて下さいという。なんとも神妙に趣深い短編だ。逆に小島信夫の短編はスキャンダルな内容であるのだが。

漱石が小学校時代に友達が漢文の本を親爺から拝借して買ってくれといわれ、50銭の言い値を25銭で買って、翌日やっぱ親爺が本を返せと言ってるから25銭返すから返して欲しいと言われ、漱石のプライドが本を返すことは憚れそれを親友に上げることにして、25銭も受け取らなかったという。さすが漱石はガキの頃から違うな。

漱石の姉たちが高田馬場から浅草まで舟で芝居見物に行ったという記述があった。川から舟で、夜明け前に出発して夜中に帰ってくるぐらいの道中だったそうな。グーグルマップで見たら神田川から隅田川に出るのかな。明治の初め頃までは河川による交通がまだあったんだね。

その女性というのは、平塚らいてうなのだが、すでにいろいろ書いていた。(2017/06/12)


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