鶴見和子対話まんだら 中村桂子の巻
引き続き鶴見和子の対談である。15年くらい前に石牟礼道子との対談を読み、先週川勝平太との対談の感想をメモした。この対談はそれより前のもので、やはり中村が鶴見和子著作集の解説を書いたことがきっかけとなっている。特に鶴見としては、中村の生命科学から飛び出して「生命誌」を打ち立てたことに強い共感を持って、本著の中でも繰り返し述べている。鶴見84歳、中村66歳のときの対談(2002年)である。既存の学問に満たされずに切り開いたきっかけは、二人とも南方熊楠であり、アニミズムである。第1場では、近代科学の鬼子であるということから話は始まる。
第2場では、パーゾンズの類型論としての「エンド」(内から)と「エキソ」(外から)が語られ、お手本としてのイギリス、アメリカの近代化に対して、後発近代化は経済成長が目標になってしまっていることに疑問をもったと鶴見は言う。「それぞれの地域にはそれぞれ特徴のある自然生態系があり、それにもっともふさわしい形で世代から世代に受け継がれたそれぞれの文化がある。」(p.37)これは、まさに三陸漁村集落の今後を考えるときの基本になる。鶴見はウェーバーの、中村はダーウィンの限界を述べている。
第3場では、二人の南方との出会いが語られる。第4場では、中村の自己創出する細胞(生命)が語られる。第5場は、科学が人間不在で展開してきたことを指摘し、それは、社会学でも生命科学でも同じで、アニミズムを呼び込むことから新しい展開が期待されるという。
第6場は、生命について、中村はDNAという基本物質が、同じものを作る性質と変える性質の両方をもつ矛盾のダイナミズムと説明する。そのことが、異質なものとの格闘から南方曼荼羅が生まれたと二人納得する。個体としては生と死があっても生命はDNAをもとにつながっていっている。
第7場では、再びアニミズムについて語る。タイラー、マートン、ヂューイが、そして田中正造が登場する。宗教ではないが、信仰であると。生態学にあるのもサイクルであり、それを範とすると、人工物もリサイクルでなくサイクルでなくてはいけないという。
第8場は、内なる自然の破壊、第9場は40億年の私の「生命」と題して結びとなるが、自然は人と一体化したものであり、自然の破壊は、自らの破壊につながるとともに、40億年の生命という時間を考えることで、自然との新しいつきあい方が築けるのではないかと言う。
対談を終えての中村の言葉「生命は完全に技術、産業、経済とセットになっている。これは20世紀型の思考の延長でしかない」その中で「内発的発展と生命誌を鬼子にしてはいけない」と。本来であれば、難題に向けてまだまだ対談は深められなくてはいけないようでもあるが、もはやそれはかなわない。