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「スキーマ療法」と「白雪姫」についてのコラム

1.はじめに

本NOTEでは、「人はどのような時に感情が揺れ動くのか?」ということを「怒り」という感情に焦点を当てて考えていきます。
同じく「怒り」について執筆したNOTEがありますので、もしよければご一読ください。(体裁が整っておらず読みにくいと思いますので、近日中に整えます)

それでは、本題となります。
本NOTEでは、以下の2つを通じて説明をします。
(1)コミュニケーションとは「鏡」である。
(2)感情が揺れ動くのはスキーマが発揮しているからだ。

2.コミュニケーションが鏡って?

「コミュニケーションが鏡」という比喩表現について見ていきます。

私は以下の2つのように考えています。
「相手の反応によって、自分の反応は影響されるし」
「自分の反応によって、相手の反応も影響される」

つまり、反応というのは「一方向」ではなく、「双方向」に影響し合うと考えています。
このことを童話を通じて、少し考えてみましょう。

(1)太陽と風

《太陽と風》という作品を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。
こちらの作品は北風くんと太陽くんで、「どっちが先に旅人の服を脱がせられるか勝負しようぜ!」いう話です。

短い話ですので、全文を引用いたします。

あるとき、さむい北風と、あたたかな太陽とが、たがいに力じまんをはじめましたが、どちらも、自分の方がえらいと云いはって、いつまでたっても、はてしがありません。
すると、太陽が、ふと、下の野原をとおって居るたびびとを見つけて、
「それじゃ北風さん、ひとつ、あのたびびとのきて居るがいとうを、どっちが早くぬがすか、ためして見ようではありませんか。まず、君からやって見たまえ。」
と、云いました。
そこで北風は、
「そんなことは何のぞうさもない」
と、云って、たびびとめがけて、ありったけの力で、ひゅうひゅうふきまくりました。
ところが、たびびとは、がいとうをぬぐどころか、ふけばふくほどがいとうのえりを立て、しっかりと両手でおさえてしまいました。
太陽はそれを見ると、
「さあ僕の番だ。よく見て居たまえよ。」
と、云いながら、雲の間からかおを出して、あたたかい光を、一面に、そそぎかけました。すると、たびびとは、きゅうにあたたかくなったので、ほっとしたように、がいとうをぬぎました。
北風は、
「まけた、まけた。」
と、云いながら、とおくへ、にげて行ってしまいました。

『イソップ童話集/太陽と風』wikisourceより引用
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%83%E3%83%97%E7%AB%A5%E8%A9%B1%E9%9B%86/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%A8%E9%A2%A8

作品のオチはご存じの通り、
「北風くんが風を吹くと、旅人は服を着込み」
「太陽くんがあたたかくすると、旅人は服を脱ぐ」わけですね。

風という力によって振る舞うと、旅人は外套を抑えるという防衛を引き起こさせました。
一方、太陽は暖かい光を旅人に与えると、旅人は安心感を覚えてほっとし、外套を脱ぎました。

つまりこれは、「自己の振る舞いによって、他者の振る舞いは変わる」ということが教訓としてあるのだろうと思います。

(2)白雪姫

続いて《白雪姫》という作品を見ていきます。
こちらの作品は少々長くなっていますので、全文を載せるのは差し控えて、全文を読めるサイトを以下にご紹介します。


紹介したいのは箇所は、以下のシーンです。

お后は不思議な鏡を持っていて、その鏡の前に立ち、映っている自分を見て、「鏡よ、壁の鏡よ、この国で一番美しいのは誰?」と言いました。

鏡は答えました。「お后さま、あなたが一番美しい。」

するとお后は満足しました、鏡は真実を言うと知っていたからです。

『白雪姫』グリム兄弟から引用
https://www.grimmstories.com/ja/grimm_dowa/shirayukihime

こちらは恐らく白雪姫で一番有名なシーンではないでしょうか。
物語の冒頭で、王妃は「鏡よ鏡 世界で一番美しいのはだあれ?」と問いかけます。
そう問いかけると、鏡は「うつくしいのはあなたです」と返答するわけですね。

(余談ですが、なんか、スマートスピーカーみたいですね。
ちょっと気になって、アレクサに質問したら魔法の鏡みたいな返答をしてきて笑いました。)

しかし、以下のシーンで王妃はひどく動揺することとなります。

そしてあるときお后が「鏡よ、壁の鏡よ、この国で一番美しいのは誰?」と尋ねると、

鏡は、答えました。「お后さま、あなたはここの誰よりも美しい。だが、白雪姫はもっと美しい。」

それでお后はショックをうけ、顔色を黄や緑に変えて妬みました。そのときから白雪姫を見るたびに、心臓が胸で盛り上がるように吐き気がし、娘をとても憎みました。妬みと自尊心が心の中で雑草のようにだんだん高くはびこって、昼も夜も気が休まりませんでした。

『白雪姫』グリム兄弟から引用
https://www.grimmstories.com/ja/grimm_dowa/shirayukihime

王妃はある日いつも通り「鏡よ鏡 世界で一番美しいのはだあれ?」と問いかけたところ、「それは白雪姫です」という予想に反するレスポンスが来るわけですね。

そうなったら、王妃は怒りに怒って、「私より美しいものがあるとは『許せん』」となっちゃうわけです。

つまり、「あなたが一番美しい。」と言われると想定していた所、全く異なる「それは白雪姫です」という反応が返ってきました。
王妃はそれに対して、『ショックをうけ、顔色を黄や緑に変えて妬みました。そのときから白雪姫を見るたびに、心臓が胸で盛り上がるように吐き気がし、娘をとても憎みました。』という体や心の動きが起こってしまいました。

この例からわかることは、
コミュニケーションにおいて「自分の期待と反する反応」が来た時に、
人は怒りを覚えたり、呆れたり、失望したりするのではないかと考えました。

以上、『コミュニケーションとは「鏡」である。』での要点は以下の二つとなります。

「自己の振る舞いによって他者の振る舞いは変わる」ということ。
つまり、対人関係の変化は振る舞いの変化であるということ。

「自分の期待と反する反応が来た時に、感情が揺れ動く」ということ。
つまり、対人関係において(無意識的にせよ)相手に望ましい反応を期待しているということ。

3.感情が揺れ動くのはスキーマが発揮しているからだ。

(1)スキーマ療法とは

次に「感情が揺れ動くのはスキーマが発揮しているからだ。」の話に移ります。

今回、《白雪姫》の王妃の心情を分析する際に、「スキーマ療法」的視点で考えております。
それでは、簡単にではありますが「スキーマ療法」についてご紹介いたします。

〈自分でできるスキーマ療法ワークブックBook1(著:伊藤絵美〉より、引用します。

スキーマ療法(Schema Therapy)とは、米国の心理学者のジェフロー・ヤング先生が考案した心理療法です。もともとヤング先生は認知行動療法を専門とするセラピストでした。認知行動療法はうつや不安など心理的な症状に大変効果のある心理療法です。しかしヤング先生が出会ったのは、「心理的な症状」だけではなく、「心の深い部分の傷つき」や「ずっと抱えてきた生きづらさ」といった、症状を抱えた、症状よりもっと深くて広いレベルで苦しんでいる人たちでした。そういった人たちは、認知行動療法によって心理的な症状が解消されても、ちっとも幸せになれないのです。そこでヤング先生は、自動思考レベルの認知行動療法をぐっと深め、スキーマレベルの心理療法を開発しました。それがスキーマ療法です。

《自分でできるスキーマ療法ワークブックBook1(伊藤絵美〉星和書店》
149ページより引用

以上が「スキーマ療法」の説明となります。
認知行動療法に関しましては、私の『物事を「認識」するって何だろうかというコラム』にて物凄く簡単に触れていますので、ご参考までに。

私が、スキーマの考えを知って、分析や思考のツールとして使用し始めて思うことは、「このスキーマはツール(道具)として使えるが、鋭すぎるな」という印象です。

とても便利ですが、扱いが難しいです。
つまり、「スキーマ療法」を紹介することは、誰かを傷つけたり、誰かを責めるつもりはないということを強調したいです。

それでは、「スキーマ療法」で扱われる用語である「早期不適応的スキーマ」と「中核的感情欲求」の2つを簡単にご紹介します。

〇早期不適応的スキーマ
スキーマ療法では、「その人を生きづらくさせている心の体質」を「早期不適応的スキーマ」と呼んでいます。「早期不適応的スキーマ」を定義すると、「人生の早期に形成されて、その時は必要だったかもしれないけれども、今ではその人を生きづらくさせてしまっている(その人を不適応に陥らせてしまっている)スキーマ」ということになります。

《自分でできるスキーマ療法ワークブックBook1(伊藤絵美〉星和書店》
151ページより引用

〇中核的感情欲求
早期不適応的スキーマはどのようにして形成されるのでしょうか。ヤング先生は、その背景にさらに「中核的感情欲求」という概念を置きました。中核的感情欲求とは、「人間が当たり前に持って当然のごく正当な欲求」のことです。(中略)ヤング先生は子どもの持つ中核的感情欲求を次の5つのパターンに整理しています。
1 愛してもらいたい。守ってもらいたい。理解してもらいたい。
2 有能な人間になりたい。いろんなことがうまくできるようになりたい。
3 自分の感情や思いを自由に表現したい。自分の意志を大切にしたい。
4 自由にのびのびと動きたい。楽しく遊びたい。生き生きと楽しみたい。
5 自律性のある人間になりたい。ある程度自分をコントロールできるしっかりとした人間になりたい。
これらの中核的感情欲求が何らかの形で満たされなかったり、傷つけられたりした場合、その人のなかに早期不適応的スキーマが形成されるとヤング先生は仮定しました。

《ケアする人も楽になる マインドフルネス&スキーマ療法 BOOK1(伊藤絵美) 医学書院》
52ページより引用


中核的感情欲求が満たされないことで生じるスキーマは5領域18種類あります。
こちらの分類をご覧になったことがある方も多いのではないでしょうか。

第一領域: 人とのかかわりが断絶されること
「愛してもらいたい。守ってもらいたい。理解してもらいたい。」という中核的感情欲求が満たされない場合のスキーマ領域。
①見捨てられスキーマ
②不信・虐待スキーマ
③「愛されない」「分かってもらえない」スキーマ
④欠陥・恥スキーマ
⑤孤立スキーマ

第二領域:「できない自分」にしかなれないこと
「有能な人間になりたい。いろんなことがうまくできるようになりたい。」という中核的感情欲求が満たされない場合のスキーマ領域。
⑥無能・依存スキーマ
⑦「この世は何があるかわからないし、自分はそれにいとも簡単にやられてしまう」スキーマ
⑧巻き込まれスキーマ
⑨失敗スキーマ

第三領域: 他人を優先し、自己を抑えること
「自分の感情や思いを自由に表現したい。自分の意志を大切にしたい。」という中核的感情欲求が満たされない場合のスキーマ領域。
⑩征服スキーマ
⑪自己犠牲スキーマ
⑫「ほめられたい」「評価されたい」スキーマ

第四領域:物事を悲観し、自分や他人を追い詰めること
「自由にのびのびと動きたい。楽しく遊びたい。生き生きと楽しみたい。」という中核的感情欲求が満たされない場合のスキーマ領域。
⑬否定・悲観スキーマ
⑭感情抑制スキーマ
⑮完璧主義的「べき」スキーマ
⑯「できなければ罰せられるべき」スキーマ

第五領域:自分勝手になりすぎること
「自律性のある人間になりたい。ある程度自分をコントロールできるしっかりとした人間になりたい。」という中核的感情欲求が満たされない場合のスキーマ領域。
⑰「俺様」「女王様」スキーマ
⑱「自分をコントロールできない」スキーマ

《ケアする人も楽になる マインドフルネス&スキーマ療法 BOOK1(伊藤絵美) 医学書院》
53-54ページより引用

以上が簡単でありますが、「スキーマ療法」のご紹介となります。
私ではスキーマ療法について掘り下げて解説するには力不足ですので、差し控えます。

もし、スキーマ療法に関して知りたい方がおりましたら、
《つらいと言えない人がマインドフルネスとスキーマ療法をやってみた。》が読みやすかったですので、お勧めです。

余談ですが、私自身、「認知行動療法的な見方」と「マインドフルネス」と「コーピング」は日々から取り入れて生活しています。
特に「呼吸」と「歩行」に関して意識をすることが合っているようです。
こちらも機会があれば、ご紹介できればと思います。

(2)スキーマ療法と白雪姫

それでは、白雪姫の例に戻ります。

「私より美しいものがあるとは『許せん』」という感情の動きは、
「この世で一番美しくありたい」という美への執着と捉えることもできるでしょう。

しかし、「この世で一番美しくありたい」と願うことは、同時に自分が「この世で一番美しくない」ということも暗示しているわけです。

なぜなら、本当に自分が「この世で一番美しい」と確信しているのであれば、鏡に問いかける必要などありませんので…。
例えば、「自分が男だ」と疑いもないように確信している人が、「自分は男でしょうか?」と鏡に問いかけることはないように思えます。

つまり、自己暗示としての性質もあるわけですね。

また、文学的だと「できない」という表現は「したい」という気持ちの裏返しだと捉えています。
川端康成の《雨傘》という小説を踏まえても、面白いと思います。

つまり、逆説的には「したい」という表現は「今はできてない/していない」という心情を描くことになるのではないでしょうか。


もっとも、私は王妃当人でありませんし、原典を読みつくしているわけではありません。
そのため、推測ですが、
「この世で一番美しくありたい」という願望は、

「他人から愛されたい」からかもしれませんし、
「欠陥がある自己を認められない」からかもしれませんし、
「完璧であるべきという捉え方」からかもしれません。

そのため、王妃が白雪姫に毒リンゴを差し向けるほど、強い「怒り」が生まれるのは、
「スキーマ」などを要因とした「個人の物の見方に拠る」のではないでしょうか。

(3)羅生門について

少々、話は逸れますが、芥川龍之介の《羅生門》という作品はご存じでしょうか。
学生の頃、国語の授業で読まれた方も多いのではないでしょうか。

参考として、以下に全文のリンクを載せます。

その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊ごへいがあるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死うえじにをするか盗人ぬすびとになるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片きぎれのように、勢いよく燃え上り出していたのである。

《羅生門(芥川龍之介)》青空文庫より引用
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.html

この作中においても、上記のシーンにおいて「下人」は「老婆」に対し、強い怒りを覚えますが、こちらも「王妃とスキーマ」と同じ関係で読み解くことができるのではないでしょうか。

「下人」は端的にまとめると「盗人になりたいがなれずにいる自己がおり、盗人になるべき理由を如何に見つけて、正当化するか」という心理の変遷を経ます。

つまり、終始「下人」は「老婆」のような行動を行いたいと考えているのですが、それを行うための「勇気」が出ないわけです。
そこに「老婆」が追剥ぎをしてくれたので、「下人」は「老婆」の論理を援用し、無事に盗人になることができたわけです。

よって、「下人」の「怒り/憎悪」は「自分が盗人になるか、こんなに苦悩をしているのに、あの老婆はさも当然かのように、それを行っている。許せん!」という心情の上に成り立っていると考えます。

もう少し、深掘りすると
以下のシーンにて、「下人」は失業によって経済的な基盤を失い、「餓死か/盗人か」「善か/悪か」と、生きるための指針が揺らいでいることが分かります。

しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云う当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前に暇を出された。前にも書いたように、当時京都の町は一通りならず衰微すいびしていた。今この下人が、永年、使われていた主人から、暇を出されたのも、実はこの衰微の小さな余波にほかならない。だから「下人が雨やみを待っていた」と云うよりも「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」と云う方が、適当である。その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。申さるの刻こく下さがりからふり出した雨は、いまだに上るけしきがない。そこで、下人は、何をおいても差当り明日あすの暮しをどうにかしようとして――云わばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路にふる雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。

《羅生門(芥川龍之介)》青空文庫より引用https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/127_15260.htm

つまり、下人は「自分が生きることすらコントロールができない」状況にあるといえます。
「自分のことをコントロールする力がない」という「下人」による「自覚」は、「如何に自分を安定させるか」という、強い「肯定」や「理由/論理」を求めさせます。

そのような心理状況にある「下人」が、
盗人であり悪に徹している(ある意味において生き方をコントロールできている)「老婆」を見たときに、強い「憎悪」を覚えるわけです。

もし仮に、「老婆」の追剥ぎをしている様子を「経済状況が安定した男」が発見したとしたら、
「なんて、憐れなのだろうか」
「こうはなりたくないものだ」
「時代が時代だから、悲しいがこれも現実なのだ」
などのような「哀れみ/蔑み/慈悲」に似た感情を抱く可能性もあります。
(もちろん、下人と同様に強い憎悪を抱く可能性もあります。)

そのように考えた場合、
明らかに「下人」が「老婆」に「憎悪」を抱くのは、「下人」の心情が大きく影響しているわけです。
仮に「下人」が「このまま餓死しよう」と受け入れ、確信した心情であったなら、「老婆」に対して憎悪を抱いたでしょうか?

つまり、「下人」は「盗人になりたいがなれずにいる自己がおり、盗人になるべき理由を如何に見つけて、正当化」せずにはいられなかったのです。

そのため、「下人」に「怒り」が生まれるのは、「自身の欠乏」を「自覚」し、それを覆い隠したり、正当化しようとすることにあったと解釈できます。

以上が羅生門の内容となります。
余談ですが「クソデカ羅生門」はめちゃくちゃ面白いです。ぜひ、ご一読を。

4.さいごに

以上のことを踏まえますと、(比喩表現として)「怒りとは自己紹介である」と考えます。

なぜなら、自分の大切にしている価値観が否定されたり、スキーマが発揮された上で感情が揺れるわけですので…。

「わたしは傷ついた!(こういうところが嫌だという自己紹介)」
「わたしを傷つけたのは誰だ」
「あの人か」
「あの人が『憎い』。許せん」

という感じですかね。

また、「怒りとは自己愛との関係である」と考えます。
多くの人が指摘しているように、「怒り」とは「自己や自己に関するものが、不当に侮辱/軽蔑/侮蔑を受けた」ことに対する感情だと捉えます。


では、簡単に本NOTEの内容を整理いたします。

(1)コミュニケーションとは「鏡」である。
・自己の振る舞いによって、他者の振る舞いは変わる
 つまり、対人関係の変化は振る舞いの変化である。
・自分の期待と反する反応が来た時に、感情が揺れ動く
 つまり、対人関係において(無意識的にせよ)相手に望ましい反応を期待しているということ。

(2)感情が揺れ動くのはスキーマが発揮しているからだ。
・「怒り」が生まれるのは、「スキーマ」や「執着」などを要因とした「個人の物の見方に拠る」ことにある。
・「怒り」が生まれるのは、「自身の欠乏」を「自覚」し、それを覆い隠したり、正当化しようとすることにある。

以上が、《「スキーマ療法」と「白雪姫」について》のコラムの内容となります。

最後に尾崎豊の『卒業』の歌詞を引用して終わります。

誰かの喧嘩の話に みんな熱くなり
自分がどれだけ強いか知りたかった
力だけが必要だと 頑なに信じて
従うとは負けることと 言いきかした
友達にさえ 強がって見せた
時には誰かを傷つけても
やがて誰も恋に落ちて 愛の言葉と
理想の愛 それだけに心奪われた
生きるために 計算高くなれというが
人を愛す まっすぐさを強く信じた
大切なのは何 愛することと
生きる為にすることの区別迷った


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