「スキーマ療法」と「白雪姫」についてのコラム
1.はじめに
本NOTEでは、「人はどのような時に感情が揺れ動くのか?」ということを「怒り」という感情に焦点を当てて考えていきます。
同じく「怒り」について執筆したNOTEがありますので、もしよければご一読ください。(体裁が整っておらず読みにくいと思いますので、近日中に整えます)
それでは、本題となります。
本NOTEでは、以下の2つを通じて説明をします。
(1)コミュニケーションとは「鏡」である。
(2)感情が揺れ動くのはスキーマが発揮しているからだ。
2.コミュニケーションが鏡って?
「コミュニケーションが鏡」という比喩表現について見ていきます。
私は以下の2つのように考えています。
「相手の反応によって、自分の反応は影響されるし」
「自分の反応によって、相手の反応も影響される」
つまり、反応というのは「一方向」ではなく、「双方向」に影響し合うと考えています。
このことを童話を通じて、少し考えてみましょう。
(1)太陽と風
《太陽と風》という作品を聞いたことがある方は多いのではないでしょうか。
こちらの作品は北風くんと太陽くんで、「どっちが先に旅人の服を脱がせられるか勝負しようぜ!」いう話です。
短い話ですので、全文を引用いたします。
作品のオチはご存じの通り、
「北風くんが風を吹くと、旅人は服を着込み」
「太陽くんがあたたかくすると、旅人は服を脱ぐ」わけですね。
風という力によって振る舞うと、旅人は外套を抑えるという防衛を引き起こさせました。
一方、太陽は暖かい光を旅人に与えると、旅人は安心感を覚えてほっとし、外套を脱ぎました。
つまりこれは、「自己の振る舞いによって、他者の振る舞いは変わる」ということが教訓としてあるのだろうと思います。
(2)白雪姫
続いて《白雪姫》という作品を見ていきます。
こちらの作品は少々長くなっていますので、全文を載せるのは差し控えて、全文を読めるサイトを以下にご紹介します。
紹介したいのは箇所は、以下のシーンです。
こちらは恐らく白雪姫で一番有名なシーンではないでしょうか。
物語の冒頭で、王妃は「鏡よ鏡 世界で一番美しいのはだあれ?」と問いかけます。
そう問いかけると、鏡は「うつくしいのはあなたです」と返答するわけですね。
(余談ですが、なんか、スマートスピーカーみたいですね。
ちょっと気になって、アレクサに質問したら魔法の鏡みたいな返答をしてきて笑いました。)
しかし、以下のシーンで王妃はひどく動揺することとなります。
王妃はある日いつも通り「鏡よ鏡 世界で一番美しいのはだあれ?」と問いかけたところ、「それは白雪姫です」という予想に反するレスポンスが来るわけですね。
そうなったら、王妃は怒りに怒って、「私より美しいものがあるとは『許せん』」となっちゃうわけです。
つまり、「あなたが一番美しい。」と言われると想定していた所、全く異なる「それは白雪姫です」という反応が返ってきました。
王妃はそれに対して、『ショックをうけ、顔色を黄や緑に変えて妬みました。そのときから白雪姫を見るたびに、心臓が胸で盛り上がるように吐き気がし、娘をとても憎みました。』という体や心の動きが起こってしまいました。
この例からわかることは、
コミュニケーションにおいて「自分の期待と反する反応」が来た時に、
人は怒りを覚えたり、呆れたり、失望したりするのではないかと考えました。
以上、『コミュニケーションとは「鏡」である。』での要点は以下の二つとなります。
「自己の振る舞いによって他者の振る舞いは変わる」ということ。
つまり、対人関係の変化は振る舞いの変化であるということ。
「自分の期待と反する反応が来た時に、感情が揺れ動く」ということ。
つまり、対人関係において(無意識的にせよ)相手に望ましい反応を期待しているということ。
3.感情が揺れ動くのはスキーマが発揮しているからだ。
(1)スキーマ療法とは
次に「感情が揺れ動くのはスキーマが発揮しているからだ。」の話に移ります。
今回、《白雪姫》の王妃の心情を分析する際に、「スキーマ療法」的視点で考えております。
それでは、簡単にではありますが「スキーマ療法」についてご紹介いたします。
〈自分でできるスキーマ療法ワークブックBook1(著:伊藤絵美〉より、引用します。
以上が「スキーマ療法」の説明となります。
認知行動療法に関しましては、私の『物事を「認識」するって何だろうかというコラム』にて物凄く簡単に触れていますので、ご参考までに。
私が、スキーマの考えを知って、分析や思考のツールとして使用し始めて思うことは、「このスキーマはツール(道具)として使えるが、鋭すぎるな」という印象です。
とても便利ですが、扱いが難しいです。
つまり、「スキーマ療法」を紹介することは、誰かを傷つけたり、誰かを責めるつもりはないということを強調したいです。
それでは、「スキーマ療法」で扱われる用語である「早期不適応的スキーマ」と「中核的感情欲求」の2つを簡単にご紹介します。
中核的感情欲求が満たされないことで生じるスキーマは5領域18種類あります。
こちらの分類をご覧になったことがある方も多いのではないでしょうか。
以上が簡単でありますが、「スキーマ療法」のご紹介となります。
私ではスキーマ療法について掘り下げて解説するには力不足ですので、差し控えます。
もし、スキーマ療法に関して知りたい方がおりましたら、
《つらいと言えない人がマインドフルネスとスキーマ療法をやってみた。》が読みやすかったですので、お勧めです。
余談ですが、私自身、「認知行動療法的な見方」と「マインドフルネス」と「コーピング」は日々から取り入れて生活しています。
特に「呼吸」と「歩行」に関して意識をすることが合っているようです。
こちらも機会があれば、ご紹介できればと思います。
(2)スキーマ療法と白雪姫
それでは、白雪姫の例に戻ります。
「私より美しいものがあるとは『許せん』」という感情の動きは、
「この世で一番美しくありたい」という美への執着と捉えることもできるでしょう。
しかし、「この世で一番美しくありたい」と願うことは、同時に自分が「この世で一番美しくない」ということも暗示しているわけです。
なぜなら、本当に自分が「この世で一番美しい」と確信しているのであれば、鏡に問いかける必要などありませんので…。
例えば、「自分が男だ」と疑いもないように確信している人が、「自分は男でしょうか?」と鏡に問いかけることはないように思えます。
つまり、自己暗示としての性質もあるわけですね。
また、文学的だと「できない」という表現は「したい」という気持ちの裏返しだと捉えています。
川端康成の《雨傘》という小説を踏まえても、面白いと思います。
つまり、逆説的には「したい」という表現は「今はできてない/していない」という心情を描くことになるのではないでしょうか。
もっとも、私は王妃当人でありませんし、原典を読みつくしているわけではありません。
そのため、推測ですが、
「この世で一番美しくありたい」という願望は、
「他人から愛されたい」からかもしれませんし、
「欠陥がある自己を認められない」からかもしれませんし、
「完璧であるべきという捉え方」からかもしれません。
そのため、王妃が白雪姫に毒リンゴを差し向けるほど、強い「怒り」が生まれるのは、
「スキーマ」などを要因とした「個人の物の見方に拠る」のではないでしょうか。
(3)羅生門について
少々、話は逸れますが、芥川龍之介の《羅生門》という作品はご存じでしょうか。
学生の頃、国語の授業で読まれた方も多いのではないでしょうか。
参考として、以下に全文のリンクを載せます。
この作中においても、上記のシーンにおいて「下人」は「老婆」に対し、強い怒りを覚えますが、こちらも「王妃とスキーマ」と同じ関係で読み解くことができるのではないでしょうか。
「下人」は端的にまとめると「盗人になりたいがなれずにいる自己がおり、盗人になるべき理由を如何に見つけて、正当化するか」という心理の変遷を経ます。
つまり、終始「下人」は「老婆」のような行動を行いたいと考えているのですが、それを行うための「勇気」が出ないわけです。
そこに「老婆」が追剥ぎをしてくれたので、「下人」は「老婆」の論理を援用し、無事に盗人になることができたわけです。
よって、「下人」の「怒り/憎悪」は「自分が盗人になるか、こんなに苦悩をしているのに、あの老婆はさも当然かのように、それを行っている。許せん!」という心情の上に成り立っていると考えます。
もう少し、深掘りすると
以下のシーンにて、「下人」は失業によって経済的な基盤を失い、「餓死か/盗人か」「善か/悪か」と、生きるための指針が揺らいでいることが分かります。
つまり、下人は「自分が生きることすらコントロールができない」状況にあるといえます。
「自分のことをコントロールする力がない」という「下人」による「自覚」は、「如何に自分を安定させるか」という、強い「肯定」や「理由/論理」を求めさせます。
そのような心理状況にある「下人」が、
盗人であり悪に徹している(ある意味において生き方をコントロールできている)「老婆」を見たときに、強い「憎悪」を覚えるわけです。
もし仮に、「老婆」の追剥ぎをしている様子を「経済状況が安定した男」が発見したとしたら、
「なんて、憐れなのだろうか」
「こうはなりたくないものだ」
「時代が時代だから、悲しいがこれも現実なのだ」
などのような「哀れみ/蔑み/慈悲」に似た感情を抱く可能性もあります。
(もちろん、下人と同様に強い憎悪を抱く可能性もあります。)
そのように考えた場合、
明らかに「下人」が「老婆」に「憎悪」を抱くのは、「下人」の心情が大きく影響しているわけです。
仮に「下人」が「このまま餓死しよう」と受け入れ、確信した心情であったなら、「老婆」に対して憎悪を抱いたでしょうか?
つまり、「下人」は「盗人になりたいがなれずにいる自己がおり、盗人になるべき理由を如何に見つけて、正当化」せずにはいられなかったのです。
そのため、「下人」に「怒り」が生まれるのは、「自身の欠乏」を「自覚」し、それを覆い隠したり、正当化しようとすることにあったと解釈できます。
以上が羅生門の内容となります。
余談ですが「クソデカ羅生門」はめちゃくちゃ面白いです。ぜひ、ご一読を。
4.さいごに
以上のことを踏まえますと、(比喩表現として)「怒りとは自己紹介である」と考えます。
なぜなら、自分の大切にしている価値観が否定されたり、スキーマが発揮された上で感情が揺れるわけですので…。
「わたしは傷ついた!(こういうところが嫌だという自己紹介)」
「わたしを傷つけたのは誰だ」
「あの人か」
「あの人が『憎い』。許せん」
という感じですかね。
また、「怒りとは自己愛との関係である」と考えます。
多くの人が指摘しているように、「怒り」とは「自己や自己に関するものが、不当に侮辱/軽蔑/侮蔑を受けた」ことに対する感情だと捉えます。
では、簡単に本NOTEの内容を整理いたします。
以上が、《「スキーマ療法」と「白雪姫」について》のコラムの内容となります。
最後に尾崎豊の『卒業』の歌詞を引用して終わります。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?