(長編童話)ダンボールの野良猫(十一・一)
(十一・一)天使の歌声
しょんぼりと頭を垂れるノラ子。えっ、まじ。ふーっ、良かった。とは満面笑みの響子。しかしノラ子とて、ただでは尻尾を巻いて逃げたりはしない。
「ママ。お願いだから、一曲だけ歌わせて」
「歌」
きょとんとする響子。
「うん。ママとの思い出の曲だから、聴いて」
思い出の曲。何、それ。ぽっかーんとノラ子の顔を見詰める響子。あんたとの間で、思い出なんか持った覚えないわよ。しかし気にせず歌い出すノラ子。
『夏が来れば、思い出す……』
はあ、何これ。背筋がゾクッ……。
ところがノラ子の歌声を聴いた途端、響子は思わずうっとり。何、この美声。丸で天使の歌声じゃないの、凄ーい。
響子は正に夢見心地、傷だらけの羽根広げ、心は天国へと舞い上がる。時間よ止まれ、世界も止まれ、わたしは小鳥。さっきわたし、何をあんなに怒っていたんだろう、こんな小娘に向かって。ばっかみたい。人生なんて、ただの冗談じゃないの、まったく……。
ノラ子の歌声が心に沁みる。響子の目には、薄っすらと涙すら滲んでいた。
『……遥かな尾瀬、遠い空』
歌が終わると、いつもそこに残るものは沈黙だけ。目を瞑り黙り込む響子に、歌い終えたノラ子が恐る恐る話し掛ける。
「それじゃ、ママ。ノラ子、もう行くね」
えっ。はっと我に返り、目を見開く響子。
「じゃね、ママ。再会出来て、嬉しかった」
再会って何で。それにわたしとの思い出の曲とか、最初っからわたしのことママとか呼んで。この子、何でこんな歌、歌い出したのよ。どうして、この歌を……。
混乱する響子を置いて、ノラ子は部屋の玄関へと向かう。若葉荘のドアを開けると、外はまだ粉雪。
「待って。待って頂戴、ノラ子」
響子が急いで呼び止める。ノラ子が振り返る。
「あんた、歌、上手いじゃない」
涙を拭いながら、にこっと微笑む響子。
「惚れ惚れして、聴いてたわ。わたしも昔、歌が大好きだった」
俯き加減、響子は唇を噛み締める。
「今じゃもう、すっかり忘れてしまったけど、歌なんか」
続けて苦笑い。
「なんか、あんたとは、ごめん。ノラ子とは、縁がありそうね」
「ママ」
囁くような小声でノラ子は答え、じっと響子を見詰め返した。
「行くとこあんの。もしないんだったら、ノラ子、しばらくここにいれば」
「でも」
さっきまでの図々しさから一転、遠慮がちなノラ子。
「いいから、ね、そうしなよ。ふたりで暮らすにはちょっと狭いけど、ノラ子さえ良けりゃ」
響子のやさしい言葉に、ノラ子はついほろり。
「ありがとう、ママ」
ノラ子の頬に、きらりと光る涙の雫。ノラ子は響子の許に駆け寄り、そのままがばーっと響子に抱き付く。どきどき、どきどきっ……。ノラ子の口元に漂うは、鯖の味噌煮のにおい。あちゃ、折角の美人も台無しね、まったく。響子は苦笑いを堪えるのに一苦労。
こうしてふたりは、狭い若葉荘で暮らし出す。改めてノラ子を見れば黒いコートの下に白いワンピース、靴は赤いハイヒール。荷物は何ひとつ持たず着の身着のまま、どっかの風俗店から逃げ出して来たといった風。そんなノラ子に響子は布団を買って上げようと提案するも、なぜかノラ子は辞退。
「でも、寒いわよ」
「いいから、いいから」
「じゃ、必要なもん、自分で買いな」
響子は代わりに、二万円をノラ子に手渡した。
正月三が日、ふたりは部屋でじっとしていたけれど、それまで何処でどんな暮らしをしていたか一言としてノラ子は語らず、響子もまた尋ねようとはしなかった。ただいつも一緒にいて、ご飯を食べ、TVを眺め、昼寝して、ぐうたらぐうたらと時を潰した。
しかし昼間は良いとして、夜寝る時にふたりで六畳一間は狭かろう。そこでどうしたかと言えば、ノラ子がキッチンで眠り、響子は今迄通り六畳の方で眠った。
「ノラ子、あんたがこっちで寝なさいよ、まだ若いんだから。わたしならもう、いつお迎えが来たっていいんだし」
そんなふうに幾ら響子が説得しても、ノラ子は一切応じなかった。キッチンの床は板張りだし、玄関からの隙間風もぴゅーぴゅーと吹き込んで来る。なのに布団もなしで、こんな真冬にとても眠れる訳がない。一体どうやって寝るんだろと首を傾げれば、その答えはダンボール。いつのまに何処で手に入れたのか、ノラ子はキッチンの床にダンボールを敷いた。
「はあ。それ、幾ら何でも冗談でしょ、ノラ子」
呆れる響子に、けれどノラ子はけろっとした顔で答える。
「ノラ子、この方が落ち着くから」
へっ、まじかよ、おい。しかし実際ノラ子は敷いたダンボールの上にゴロリと寝転がるや、頭からこれまたダンボールを被って詰まりダンボールにサンドイッチで、それは気持ち良さそうに目を閉じる。
「お休みなさーい、ママ」
いつのまにか、すやすやと熟睡。ふへーっ、大したもんね。でもやっぱりノラ子って、変な子だわ。これまた響子は苦笑い。