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(小説)おおかみ少女・マザー編(三・二)

(三・二)雪
 二〇八五年である。
 桃里ゆきが五歳の冬、クリスマスの日の午後のこと。母なる大地の聖母院の在る丘へと続く坂道を、一組の夫婦が登っていた。
 神奈川県横浜市から遥々観光旅行で訪れた、斉藤健一郎と秋江(共に三十五歳)のふたりである。健一郎は地元横浜の地方紙ディリーヨコハマの新聞記者で、秋江は専業主婦であった。
 その時ふたりはまだその施設の事など、何も知らなかった。ただ純粋なる観光目的で、あの丘の上から神戸港の景色を一望したい。そんな願いを抱いて、歩を進めていたまでである。間もなくしてふたりは、施設の在る丘へと到着した。
 予想した通り、そこから見下ろす神戸港と神戸の街並みは絶景であった。ふたりが景色に見惚れていると、灰色の空からちらほらと白いものが……粉雪。神戸の街に降り出した初雪である。ふたりが雪に目を奪われていると、目と鼻の先に在る母なる大地の聖母院から、ひとりの少女が勢い良く飛び出して来た。彼女が、桃里ゆきである。
 斉藤夫婦の事など気にもせず、ゆきはひとりで無邪気に雪の中を駆け回った。落ちて来る雪をつかまえようと、両腕を大きく空に広げながら……にこにこ、にこにこ、それは嬉しそうに楽しそうに。そんなゆきの姿が余りにも可憐で、斉藤夫婦は思わず彼女に目を向けずにはいられなかった。ふたりは眩しそうに目を細め、ゆきの姿をじっと見つめた。そして堪らず秋江は、ついゆきに声を掛けた。
「楽しそうね、お嬢さん。雪が好きなの?」
 突然見知らぬ大人に話し掛けられ、ゆきは驚いて立ち止まった。しかしやさしそうな秋江の顔に、ゆきは直ぐに微笑んだ。
「うん。ゆきちゃん、雪だーい好き。だってゆきちゃんの名前、ゆきって言うの!」
「ゆきちゃん?あら、そうなのね。どんな字書くの?」
 続けて尋ねる秋江に、ゆきは答えた。
「平仮名の、ゆき」
「あーら、かわいらしいお名前ね」
 秋江も子どものように笑い返した。
「うん」
 舞い散る雪の中で頬をまっ赤にして頷くゆきは、丸で天使のよう。母なる大地の聖母院は建物がキリスト教のチャペルである為、教会と勘違いする者も多い。秋江たちもまた同様に、児童養護施設だとは思っていなかった。
「ゆきちゃんも、お祈りするの?」
 秋江の問いに、ゆきはキョトンとした顔でかぶりを振った。
「お祈り?ううん」
 それからゆきは唐突に、ぽろっと零した。
「ゆきちゃん、パパもママもいないの!」
「えっ?」
 斉藤夫婦は吃驚した。
「ゆきちゃん、ひとりぼっち……」
 急に俯く寂し気なゆきに、健一郎と秋江は思わず顔を見合わせた。
 ……もしかしてこの子、孤児?
 斉藤夫婦には、子どもがいなかった。

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