(小説)交響曲第五番(四・二)
(四・二)第四楽章アダージェット・3分
自分が二十歳になった時、紀ちゃんは浅草女子高等学校に通う女学生だった。紀ちゃんの部屋からはいつも、マーラーの交響曲第五番、第四楽章が流れていた。自分がズバリその曲名を、第四楽章まで言い当てた時、紀ちゃんは吃驚していた。
「すごーい。昇くん、どうして知ってるの」
紀ちゃんは少女の頃と変わらず、自分のことを、昇くん、と親しげに呼んでくれた。まさか吉原に行って知った、などとは口が避けても言えない。紀ちゃんの前でついカッコつけたくて自分は、ガキの頃から好きで、よく聴いていた、などと嘘を吐いた。
紀ちゃんは、自分が東京で初めて野宿した風の丘公園のことを知っていた。高校から帰宅する途中、いつもクラスの親友と寄り道しているからだった。夕映えの空の下ふたりでブランコに揺られながら、陽が沈むのも忘れてお喋りしていると言う。
高校三年に上がった紀ちゃんは、秋、品川にある大手電機メーカー、港電気株式会社への就職を決めた。
「わたし、早く社会人になりたいの」
そう言って、大学進学を望む敬七さん、玉子さんを諦めさせた。
紀ちゃんの学校が冬休みに入ったクリスマスの日の昼下がり、林屋は早々と店じまい。そして近所の顔馴染みが集まり、紀ちゃんの就職祝いのパーティがささやかに催された。恥ずかしながら自分も招かれた。
「あの泣き虫の紀ちゃんが、社会人たあねえ。道理でおじさんもじじいになる訳だ」
「何でも一流の大企業だってよ、羨ましい。敬ちゃんも玉ちゃんも、鼻高々じゃないの、全く」
「そんなことないってば」
顔をまっ赤にして照れまくる紀ちゃん。そんな紀ちゃんの横顔は、少女時代と変わらず眩しかった。相も変わらずドブネズミの自分にとって、やっぱり太陽のような人だった。
「後は良い旦那さんを見付けるだけだなあ、敬ちゃんよう」
旦那さん……。さっきから黙って、じっとみんなの会話に耳を傾けていた自分は、どきっとして胸が締め付けられる思いがした。その時紀ちゃんと目と目が合った。
「なんちゃって。実はもう、良い人いたりして。ねえ、紀ちゃん」
すると紀ちゃんの代わりに、敬七さんが零した。
「やだなあ、みんな気が早いんだから。紀子はまだ、高校も卒業してないんだよ」
「ま、確かにそうだな」
「でもそんなこと言ってると、あっという間に、おばあちゃんだよ」
おばあちゃん。飲んでいた林檎ジュースを吹き出しそうになりながら、紀ちゃんは笑った。
「やだーっ、須賀さんったら」
笑いながら、さっきから紀ちゃんはちらちらと自分の方を気にしている様子だった。自分がずっとひとりで黙ったままでいるから、心配してくれているのかも知れない。紀ちゃんが主役なんだから、自分のことなんか気にしなくって構わないのに。